偶然

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 翌朝。まず、事務員に電話をかけた。眠そうな声で、 「先生?」  どこか煩わしげでさえあった。朝が弱いタイプであることは、聞いていた。 「悪いが、怪我をしてね。今日は事務所に出られない。来客があったら、適当にあしらってくれ」 「はあ、分かりました。お大事に」  電話が切れた。最後まで眠そうだった。覚醒してから、焦るかもしれないなと想像した。  それからタクシーを使い、事務所の近くで降りた。事務所には、連中が張っているかもしれない。俺はそのまま、事務所とは反対方向に歩き出した。目指したのは、三週間ほど前に由梨と再会した喫茶店だった。窓から見た限り、客はいなかった。  店に入る。親父は俺の顔を見て一瞬ぎょっとした表情になったが、すぐに微笑みを作った。女の店員は、今日は姿が見えない。 「いらっしゃいませ」 「突然、すみません。白石由梨さん、ここに来ていませんか?」  彼女の名前を聞いて、彼は目を丸くした。俯き、 「今日は、いらしてませんね」  と答えた。 「行方不明なんです、彼女。俺に、意味深な留守電を残しておいて」 「留守電というと、あなたが弁護士の?」  顔を上げた。頷き返す。 「こちらに、いますね?」  尋ねると、 「少し、お待ちください」  神妙な顔でそう言い、カウンターを出て、階段を上っていった。おそらく、上は自宅として使っているのだろう。少しして、また降りてくる。こちらに向かって頷いただけで、また上っていった。その後に続く。  急な階段を上りきると、廊下があった。進んでいく。そして、奥の左側の扉をノックした。  どうぞ。  聞き覚えのある声が、返ってきた。  彼は扉を開けず、俺に一礼して、降りていってしまった。  仕方なく、扉を開ける。重い扉だと、感じた。  部屋。六畳くらいのフローリングに、ベッドとデスク。そして、由梨。 「やあ」 「……どうしてここが?」  今にも泣き出しそうな顔だ。 「君が俺に渡すようにと残したメモリ。あれの中に、被害者のリストがあっただろう」 「ええ」 「ある被害者の住所欄に、ここの店名があった。他の被害者の住所は、番地までなのに。もしかしたら、と思った」  俺が見ることを前提としたデータ。だからこそ、潜伏先を暗に伝えるような書き方をしたのではないか。偶然会ったこの店ならば、他人には予想しにくい。 「ここの娘さんが被害に遭ったのは、本当よ。だから、こうして応援してくれてる」  由梨は、寂しげな笑みを浮かべて頷いた。被害者である店主の娘は、自殺したはずだ。 「酷い顔ね」  手を伸ばしてくる。仰け反るようにして避けると、それ以上伸ばしてはこなかった。  ベッドに、並んで腰を下ろす。デスクの上に、パソコンがあった。 「ごめんなさい」  俯く彼女。肩を軽く叩いた。細くて、脆そうな肩だった。 「眞宮剛士について、君は熱心に調べていた。息子に被害を受けた人々を取材したりして。しかしその過程で、眞宮剛士本人の悪事を知ってしまった。違うかい?」  冴木がプリントした紙の五枚目。それには、新たに建設される国際競技場の用地確保において、眞宮が企業との裏取引によって莫大な利益を得た証拠が記載されていた。 「今まで、息子を守ってきた圧力は眞宮の代議士という立場ゆえのものよ。だから、その立場を崩す必要があると思って調べたの」 「だが、告発を前に、上司の河西が眞宮にバラした」 「そこまで知ってるの?」  さすがに驚いたようだ。 「君から留守電があったことを知ってるのは、上司の男と、君がメモリを預けた同僚だけだ。そして、昨日俺を襲った連中は、俺がメモリを持っていることは知らないようだった。だから、眞宮と裏で繋がってるとしたら、上司の方かと」 「繋がってるなんて。媚びてるだけよ」  汚らわしい、というような顔で毒づく。 「眞宮のスキャンダル。スクープになるだろうってあの人に話した次の日から、妙な人たちに尾行されるようになったの。だから、バックアップとしてメモリを残して、ここに隠れさせてもらった」 「スマホの電源を切ってるのは?」 「GPSで居場所を知られないように。相手が相手だから、どんな手を使ってくるか分からないわ」 「俺に、あんなメッセージを残したのは?」  そう尋ねると、また俯いた。怒られてる子どものようだ。 「別に怒ってはいない」 「助けてって。言おうとしてた。でも、なんでか言えなかった。ごめんなさい」 「いいさ。それより、これからどうするんだ?」  ええ、と頷き、由梨は立ち上がった。  チェアに座り、デスクの上のパソコンを立ち上げる。 「複数の出版社や新聞社にいる、信頼できる知り合いに、調べた情報を送るの。そして、同時に公表してもらう。それから、警察にも送る」  文書ファイルを添付したメールが表示された。件名には、告発状とある。 「警察の知り合いにメモリは預けたが、君の告発状付きの方がインパクトがあっていいかもな」 「ありがとう。準備は、もう少しで整うの。これで、矢部さんの仇も取れるわ」 「……そうか」 「落ち着いてるのね」 「やっぱり、冷めてるかな」  細い首を捻り、振り返る。そうね。小さな口が笑った。 「表面上は冷たい。でも、その内側に燃えてるものがある。怖いくらいに。昔のあなたが、そのまま大人になったみたい」  言うだけ言って、ぷいとまたパソコンの方に向き直ってしまう。 「そうか」  笑うと、まだ顔が痛かった。その痛みすら、どこか爽やかだった。
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