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十二時半に、昼食のために弁護士事務所を出た。いつもより遅めの時間になったのは、午前中に来た法律相談の客がいつまでも粘っていたからだった。普段は十一時半に、行きつけの店が開店するのに合わせて事務所を出る。事務所は俺の個人事務所なので、時間に規則はない。一人だけ雇っている事務員にも、好きなようにさせている。元は、俺に弁護士としてのイロハを教えてくれた人の事務所で、他にも弟子のような弁護士が数人いた。師匠というべき人が引退し、弟子たちも独立や移籍で事務所を離れ、俺だけが残った。
行きつけの店は十二時を過ぎるとひどく混む。それは知っていたので、今日は別の店にと考えながら飲食店街を歩いた。
細い路地の向こう側に、落ち着いた雰囲気の喫茶店を見つけた。
入ると、眠そうな親父がカウンターの奥から、人懐っこい笑顔で挨拶してきた。客は、二人組のOLだけだった。
窓際の席に座り、焼き飯とコーヒーのセットを頼むと、窓の外に目をやった。人通りのない、裏通り。
午前中に来た客のことを考える。中年の男。妻に浮気を知られ、慰謝料を少なく済ませる方法を聞いてきた。口ぶりの誠実さや身なりの清廉さの奥に、粘っこい意地汚さが透けて見える男だった。
三年前、まだ俺が仕事に飢えていた頃は、引き受けたかもしれない。今では、顧問を任された企業が四つある。客を選ぶ自由くらいは、得たといってもいいだろう。一昨日までは、顧問の企業が五社あった。明らかに不正な会計処理をしていることに気づいたので、こちらから顧問を辞めた。不正が公になれば、俺の評判まで傷つく。他人に足を引っ張られるのは、ごめんだった。
昔を思い出すと、連なって思い出されるものが、いくつかある。それらの多くは、今の自分とっては失われたものだった。
視界の端。乾いた秋晴れの中を、コートの前をかき合わせるようにして歩く女が見えた。店の方へと近づいてくる途中で、目が合った。女の口が、大きく開いた。
「由梨」
気づけば、俺も口を大きく開けて彼女の名前を呼んでいた。ガラス越し。聞こえるはずはない。
白石由梨は少し迷ってから、店に入ってきた。俺の側まで来て、立ち止まる。
「座れよ」
「ごめんなさい」
向かいの席を勧めると、俯き加減で腰を下ろした。
「あなたも、ここによく来るの?」
「いや、今日はたまたまさ」
「そう。偶然ね」
「君は、いつも?」
「週に二日くらい」
「偶然だな」
言葉に詰まっていると、女の店員が焼き飯とコーヒーを持ってきた。由梨の顔を覚えているらしく、いくつか言葉を交わしながら、彼女は注文をした。
構わず、スプーンを手にする。味は、悪くない。
「一年ぶり、かしら」
「お互い変わらないな」
「そうね。一年くらいじゃ」
去年の冬に別れたときと、彼女の印象は変わらない。
「今も、オフィスは同じ?」
「あいにく、移転を考えられるほど稼ぎはなくてね」
「野心のなさも、相変わらず」
「そうさ」
コーヒーを飲む。香りだけが、自分が今を生きていることを実感させる。今日は、過去が顔を出しすぎだ。
「私も、相変わらずよ」
自嘲するように言う。週刊誌の記者で、政治部に所属していたはずだ。俺が政治家絡みの案件を扱うとき、よく情報を流してもらっていた。
「また、話を聞きに行くことになるかな」
「きっと、ないわ。そんな危ない依頼、全部断るでしょう?」
「違いない」
笑って、空になったカップを置いた。伝票が一緒になってるので、千円札を三枚置いて店を出た。由梨は断る素振りを見せたが、俺が財布から出した金を戻さないことを知っているので、諦めたようだった。
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