トーキョー・ブルー・ラプソディア(短編集『臍の緒』より)

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 「お腹空いたね。」  途中でコンビニに寄ってそれぞれ買い込んだ、好みの弁当を袋から出してテーブルに並べる。僕は大盛から揚げ弁当。彼女はパスタサラダ。それから……  彼女が缶ビールを一本、レジに持っていったのを僕は見逃していなかった。僕がまだ未成年であることを気にしてか、それとも単に酒があまり得意ではないからなのか、彼女は僕の前で一度も飲酒をしたことがなかったのに。だから、彼女の持つコンビニの袋はいつもより重たそうに見えた。  彼女は僕に断るでもなく、あまりにも自然な動作で缶ビールを手に取って、プルタブに爪を立てた。カリカリ……カリカリカリ……。  「珍しいね?」  「うん? そうかしら……そうだったかしら……」  彼女の桜貝のような爪が、ギシギシと軋む。綺麗に短く整えられたそれは、なかなかプルタブを持ち上げられない。カリカリ。ギシギシ。カリカリ。僕は見ていられなくなって彼女の手から缶ビールを奪うと、難なくプシュッと開けてみせた。  「ありがとう。」  彼女は改めて缶ビールと向き合うと、仄暗い唇を押し当てて、背中を反らせてグイっと天を仰ぐようにグビグビ飲み始めた。その時初めて気付いた――彼女は乾いていたのだ。彼女の喉が跳ねる度に、彼女の体は少しずつ潤いを取り戻していく。波のように。蜜のように。そんな、生と死が交差するはざまの情景に、僕は冷めたから揚げを食べることしかできない。グビグビ。むしゃむしゃ。グビグビ。むしゃむしゃ。部屋にこだまする僕たちの音。やがて飽和して、昇華される時は訪れるのだろうか。  いつの間にかレースのカーテンの向こうで、夜がしっとりと深まっていた。食事を終えた僕たちはベッドを背もたれにして、大して面白くもないバラエティを映すテレビを並んでぼーっと眺めていた。……ふと、彼女がもぞもぞと身動ぎをしたかと思うと、突然僕の首に腕を回してしがみ付いてきた。彼女の力は、彼女のものとは到底思えないほど強かった。この細い腕のどこに、そんな力が宿っていたのだろう。或いは、酒の力なのか。首を捻ってようやく覗き見た彼女の頬は、他所の白さが際立つほどの深紅に染まっている。僕は子どもをあやすように、彼女の背中を優しく撫ぜた。同時に、熱い吐息が耳を掠める。背筋に電流が走って、ドクンと心臓が鳴った。  ――初め、テレビから聞こえてくる品のない笑いがかき消してくれたから、僕は知らずに済んだのに。二度目のそれは、はっきりと僕に届いてしまった。  「さみしいひと」  ぽつりと彼女の口から漏れた――。僕が? 君が? 琥珀に閉じ込められた、あの小さな虫が? それとも、世界が? 誰に向けて放ったのか分からないその言葉は、僕の耳の奥に染み込んで、じわじわと脳を侵していく。さみしいひと。ちょうど、彼女が例の死生観を語る時の口調に似ているな、と僕は思った。あんなに〝曖昧なもの〟だったはずなのに、今の僕にとってそれは、彼女の全てに他ならなかった。さみしいひと。さみしいひと。今日に至るまでの様々な彼女の横顔が、走馬灯のように駆けていく。僕は彼女を強く抱きしめることも、突き飛ばすこともできずに、どうしようもない不安定な気持ちが去っていくのを、ひたすらに待つしかなかった。  ほどなくして、彼女はすやすやと寝息を立てて、赤子のように眠ってしまったのだった。  「さみしいひと……」  僕はそう呟くと、静かに彼女の背中に爪を立てた。  君の瞳には、何が映っていた? 君の耳には、何が聞こえていた? 僕の知らない、何を知っていた? 僕には分からない……分からないんだ……。  どこからか、彼女がノートに書き留める時の、あの音が聞こえてくるような気がした。夜が更けてゆく。僕は疲れた思考を停止させて、彼女に抱かれたまま、瞼をそっと閉じた。
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