トーキョー・ブルー・ラプソディア(短編集『臍の緒』より)

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 さて。僕の大学デビューについて語るのはこのくらいにして、彼女の話をしようと思う。彼女に初めて会ったのは……正確に言えば、僕が一方的に〝見つけた〟のは、瑞々しい新緑が影を作り始める、五月も半ばを過ぎた頃だった。  気だるい月曜日。ようやく体が目覚め始める正午過ぎ。いつも通り二限目の講義を終えて、ノートを仕舞おうと机の下の鞄に手を掛けた時だった。カリカリカリカリ、カリカリカリ……突如奇妙な音が聞こえてきた。どうやら何か、すごい勢いでペンを走らせているような……しかし、講義はもう終わっている。一体何を必死に書くことがあるのだろう? 僕は鞄を取る体勢のまま、しばしその音に耳を峙てた。カリカリカリカリ……カリカリ……カリカリカリカリ……カリ……。がたっ! がさごそ……がたん! 途中でいきなり変化した音に驚いて、僕はうっかり椅子から転げ落ちそうになった。危ういところでなんとか立て直し、僕は僕の背後から去っていく、強烈な音源を急いで目で追った。すらりとした細身の体。照り返す白い腕。肩の辺りで切り揃えられた黒い髪は、さらさらと風に靡いている。顔は見えないが、頬がほんのりピンク色に染まっていて――ラフなTシャツにフリルのロングスカートを履いた「彼女」は、颯爽と教室を出て行ってしまった。  なんだ、今のは?  翌日、別の講義の終わりに、僕はまたあの奇妙な音を耳にした。カリカリ……カリカリ……。その次の日も。カリカリカリカリ……。そのまた次の日も。カリカリ……カリ……。今まで気付かなかったのが嘘のように、毎日聞こえる「彼女」の音。しかし、いつもそれは僕の背後から聞こえてきて、僕がはっとして振り返った時にはもう、残像となって廊下へ消えていくばかり。受講している講義から推察するに同じ学科の新入生だろうと思われたが、どうにも実体が掴めない。帰り道、いつもの仲間――彼らは瘴気の中で見付けた僕の同族……つまり、地元でのらりくらりとやっている学生たち――に誘われて寄ったカラオケ店で、僕はそれとなく友人の一人に「彼女」について尋ねてみた。が、大音量で歌う何某アイドルのメロディーが邪魔をして、友人はちょっと首を傾げてそれっきり、合いの手を入れることに夢中になってしまった。  週明け。「彼女」に気付いてちょうど一週間。今日こそ僕は懐へ潜り込んでやろうと考えていた。大学に入って初めての「やる気満々」がこれでいいのかと疑問はあったが。いよいよ講義の終わりを告げる鐘が鳴る。学生たちは堰を切ったように流れ始める。さあ、来い! 奏でてみろ! 僕はきっと捕獲してみせる! あまり意味はないであろう謎の挑発を脳内で詠唱して、ゴクリと唾を飲み込んだ。カリカリカリ……カリカリ……。……きた!  「あの…………ってぇ!」  ガターンと大袈裟な音を立てて、椅子が転がった。今まさに教室を出て行こうとしていた数人の学生が、僕の方を振り返る。恥ずかしいという感情の前に、脛の辺りがじんじんした。いや、それよりも……一番驚いたのは、どうやら「彼女」だったらしい。それを見て、僕もひどく驚いた。僕は心のどこかで、奇妙な音を発する音源を異世界の存在、奇怪な何かと錯覚していたようだが、今目の前にいて視線を交わしている「彼女」は、その類とはまるで縁のなさそうな、歳の割りに幼く澄んだ顔立ちをしていた。くりっとした瞳をますますくりっとさせて、鼻は低く潰れた形だったが、不思議と輪郭によく馴染んでいて、薄く開かれた唇の奥は、星のない空の果てのような色をしている。吸い込まれそうな純粋さに、僕は一瞬眩暈がした。
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