♰71 島の噂

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♰71 島の噂

〈東浦〉に、この島の港があった。  黒木は負傷(?)した足をとくに気にすることなく、連絡船から届いた荷物を軽トラックの荷台に移していた。 「黒ちゃん、その足どうしたの?」  バミューダパンツの右足に巻いてある包帯を指さして、連絡船の操縦士の権藤が言った。 「山道でちょっとくじいてしまったんだよ」 「ふうん……」権藤は目を細めて言った。「気をつけなよ、黒ちゃんはおっちょこちょいなんだからね」と、船の中へ踵をかえした。が、背中越しにこうも言った。「黒ちゃん……女難の相がでてるよ」 「えっ?」  と黒木が荷積みの手をとめて権藤を見たが、ちょうど船室の中に背中が隠れてしまった。  本土への折り返し出航をまえに乗客が何人か乗りこんでいた。黒木が荷積みをしているそばを黒いコートを着た人物が通りすぎた。 「あっ?」  黒木はその人物を呼びとめた。 〈東浦〉港の売店の前に、由香子が売り子のおばちゃんと、酒屋のおばちゃんと、港の食堂のおばちゃんと、島唯一の車の販売/修理店・なかじまモータースの奥さんと、その従業員の小娘(事務職ときいて勤めだしたが、けっきょく車の修理とかなんでもやらされている)と、行商のおばちゃんと、民宿のおばちゃんと話しこんでいた。 「そういや、昨夜の〈西浦〉の火事はどうだったんだい?」  彼女らの井戸端会議で議長らしき酒屋のおばちゃんが言った。「あんた、なにかきいてんでしょう?」  自動車販売店の小娘がうなずいた。彼女の彼氏が消防団の一員だった。当然昨夜のうちにそれなりの情報がこの小娘に伝わっていることとにらんでいるおばちゃん連中が身をのりだした。 「それなんですけどぉ。彼氏(よっしー)の言うことじゃ、どうも不審火らしいんですよぉ。家の焼け跡のまわりで、放火の跡がみつかったんだってぇ。と言ってましたぁ」と小娘(あゆこ)が言った。 「あらぁ!」車座の一同が声をあげた。「まあ、いやねぇ」「こわいわぁ」「ホント、物騒だわねぇ」「世の中も末ね」 「それよりも?」民宿のおばちゃんが言った。「――で、死体はあったの?」  待ってました! と言わんばかりに自動車販売店の奥さんが小娘(あゆこ)を制して身をのりだした。――情報源のあゆこは手柄を横取りされたので、ふくれっ面をした。 「それがねぇ、死体が出なかったのよぉ!」 「あらぁ!」「そうなの!?」「それはへんねぇ?」「そんなわけあるかしら?」 「――どっかに出かけたんじゃないの?」港の売店のおばちゃんが言った。 「あら? あんた、あの女の姿を見たの?」民宿のおばちゃんが訊いた。 「いいえ。あたしゃ、見てないわよ。いち日じゅうここにいるから、港のすみずみまで見えるからね。あの女が島から出ていったんなら、ぜったいに見逃すはずないわよ」売店のおばちゃんが鼻を鳴らした。 「まあ? あんたがどっかに行った。とか言っといて! なんなのそれは?」酒屋のおばちゃんが売店のおばちゃんの矛盾を申し立てた。 「それは、島のどっかに行ったんじゃないかって、意味よ。早とちりしないでよ」と売店のおばちゃんが弁明した。 「あたいは見てないよ」と、行商のおばちゃんが言った。「あたいは島じゅう歩いてきたがね。あの女の姿は見なかったよ……それよりも、堀田のじいさんの姿も見えなかったね。おまけに〈南浦〉の教会にも行ったんじゃがね。あたいが来ると、いつも教会からいちばんに飛びだしてきよるシスターもおらんかった。いつも神父さまといっしょに連れだって教会から出てきてお菓子をたっぷりと買いこみよる娘っ子じゃが……えらいくたびれもうけじゃわい」 「それじゃ、いったいあの女どこに行ったんだろうね?」と、やっと港の食堂のおばちゃんが話しにくわわった。 「どこだっていいよ」民宿のおばちゃんがいまいましそうに言った。「なにせ得体の知れない女だったからねぇ……」 「……」車座の一同が沈黙した。 「家の敷地をくまなく調べてぇ――」あゆこが言った。「近くの藪のなかも調べたけどなんにも出てこなかったのよ」と、まかじまモータースの奥さんがあゆこを押しのけて言った。「手掛かりなしね」  「じゃあ、あの真具田麻里亜(まぐたまりあ)って女。生きてるか、死んでいるか、わからないじゃないの」由香子が言った。 「あらぁ!」「ちょ、ちょっと由香子さん!」「シーッ!」「めったなことを言うたらあかん!」  由香子を除く、おばちゃんと小娘一同があたりをキョロキョロと見まわした。由香子も口を手で隠し、目玉をキョロキョロさせた。 「その名前を言ってはいけないわ。けっして言ってはダメよっ」と真剣な顔をした酒屋のおばちゃんが言った。 「――それよりね」自動車販売店の奥さんが話題をかえた。あゆこは、もうじぶんが活躍する機会がないとわかってすっかり観念した。「昨夜から湯田工務店の旦那さんと、診療所の西門医師(せんせい)の姿が見えなくなっているらしいのよ」と言った。「いま駐在所の由伸くんが、火事の後片付けで手すきになった青年団といっしょに島じゅうを探しまわってるらしいわ」 「あの子たちもたいへんだねぇ。消防団もかねてるから、ぜんぜん寝てないんじゃないの?」 「だいじょうぶですよぉ、わたしと同じ歳で、若いんだからぁ!」と、あゆこが早口で言って、一矢報いた。 「ほ~う?」「へぇーっ?」「はぁっ?」  あゆこは井戸端会議のおばさま連中から、とがった視線をあびた。あゆこは立場がわるくなった。 「西門医師(せんせい)と湯田社長がいっしょに見えないとなると……」民宿のおばちゃんが目を細めた。「いっしょにあすこにいるんじゃない?」 「あすこって? どこじゃ?」行商のおばちゃんが言った。 「あんたなら知っているでしょ。〈西浦〉のお山のてっぺんよ」  行商のおばちゃんがしかめっ面をした。「あたいは、あすこ(﹅﹅﹅)には行かないよ。気味が悪いところだもの……それにいまはだれもいやしないじゃないかね?」 「あら? いまだれかが湯田社長の貸し別荘に住んでいるらしいわよ」売店のおばちゃんが首をかしげながら言った。「なんかだらしない恰好をした男だったような気がするわ」  酒屋のおばちゃんが鼻を鳴らせた。「いんや、そんな男見たことないね! あんたの勘違いだよ」  売店のおばちゃんが売り物――魚の開きのパック――の上で肘をつき、しばし考えていた。 「そういやそうねえ、あたしの思いちがいだったわ。なにせ、ここからこの島に出入りする人たちをいつも見ているからねぇ」  「だけど、西門医師(せんせい)がいなくなったら困るわよね。なにせ、島唯一のお医者さんだものねえ」民宿のおばちゃんが言った。 「そういや、あの医者おかしな趣味があるらしいよ……」酒屋のおばちゃんがニヤッとした。 「ええっ!? なになに?」「それはどういうこと?」「洗いざらい言ってちょうだいよ」 「――あら? そう言えばあのひとどこに行ったのかしら?」  と、由香子がうしろで盛大に盛りあがっているおばちゃん連中から意識をそらし、港の駐車場に停めてある<よろずやの黒木>と描いてある軽トラックのほうを見た。そこには夫の姿がなかった。彼女は波止場のほうに顔を向けた。  連絡船が出航するところだった。船のけたたましい轟音が響き、ちょうど船が離岸しているところだった。その船のほうを見て夫がしきりに頭をさげたり、手をふったりしているのが見えた。 「あなた? どうしたの?」  由香子は夫に訊いた。夫のそばによった妻は夫の顔の鼻の下が伸びているように見えた。  黒木は驚いたように背筋を伸ばした。 「マ? マイ・ハニー!? お、お見送りをしてるんだよ」 「お見送り?」由香子は首をかしげた。 「ああ、なんでもここでのお勤めがおわったから、べつのところに行くらしいんだ。彼女……」と、黒木は早口で言った。 「まあ? どなた……」  船が離岸した。塩水で曇った船窓の向こうに女性がいた。彼女は黒木と由香子に向かって会釈をした。そして、横を向くと金色の髪が彼女の顔を隠した。 「あら? いまのひと……どこかで会ったような?」  黒木がとろけそうな顔をしていた。「あんな美人がこの島にいたかなぁ?」黒木は、遠ざかっていく船を見つめて、うっとりとした顔をした。と、背中につよい衝撃を感じた。  ザッポン!  言った途端、海のなかにいた。 「フン……」  と、由香子はズカズカと大股で歩くと軽トラックに乗りこんだ。彼女は夫を海にとり残して車を出して港からさっていった。  井戸端会議のおばちゃんらは、町道を疾駆してゆく軽トラックを見つめていた。 「由香子ちゃんもこわいわね」「情念が深いって噂だよ」「あんな女房じゃ、たまったもんじゃないね」 「あの(ヒト)が、いちばん怖いんじゃない?」 「おおーい! こりゃ、たいへんだー!」波止場から遠ざかる船から身を乗りだして権藤が叫んでいた。その声をきいて港から作業服姿の男たちや保安係の連中が飛びだしてきた。 「こりゃ、見物(みもの)だね!」と、おばちゃん連中が波止場に向かって駆けだした。  波止場では、港の男たちや女たちが、水面でもがいている男に向かって浮き輪を投げたり、釣竿を伸ばしたりしていた。  連絡船は、きょうは波のおだやかな外海に向かって出航していた。 (了)
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