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♰5 老婦人
帰路につく信徒らのなかに、杖を使って教会の階段を降りている老婦人がいた。彼女はやや覚束ない足どりで杖に身をあずけながら階段を一段降り、膝をふるわせながらもう片方の足が追いついてくるのを待った。
突として老婦人の膝が激しく揺れだした。杖の石突が滑っていた。彼女のからだは平衡がくずれ、上体がふらつきだした。
彼女は短く吃驚すると、ふいに空が見えた。――空のなかに綿をのばしたような薄紅梅色の雲。それを見ながらからだがうしろに倒れてゆくの感じた。彼女はつよく目をつむった。
老婦人は三年前自宅の階段から転げ落ちたときのことを想起した。階段で足が滑り、十三段のいちばん上から、いちばん下まで落下したのだった。彼女は悲鳴をあげる間もなく、落ちているあいだの記憶も刻みこまれることもなく、一階の床にからだを叩きつけた。
――膝の半月板の損傷。彼女はそう診断された。二年間の車いす生活。その後、彼女はかろうじて回復したが、以後杖を突く生活を余儀なくされた。
この不慮の事故以来、彼女は日々の生活に不自由をしいられていた。連れあいはとうの昔に亡くしており、世話をしてくれる身内も常にはおらず、こころのよりどころはこの教会に訪れるということだけ。きょうもまた礼拝に訪れていたときのことだった。老婦人はあの事故の再来を予見した。
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