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♰6 神父・森義矢
老婦人は頬に一陣の風を感じた。同時に背中にある柔らかい手のひらを知った。彼女は幼いころに感じた父親の手のひらをおもい浮かべた。力強く抱きあげられて、包みこんでくれるような感覚。その手のひらに包まれて、優しくあやしてくれている父親の面影。
老婦人は瞼からちからをゆるめた。すると、彼女はじぶんと夕空の間に黒い影が割りこんでいるのを見た。
神父が老婦人を抱きかかえていた。彼女は、回想の父親とはまったくちがう優美な顎と、凛とした細眉、透きとおるような白色の肌、その異国の人のような顔のなかにあるハシバミ色の目にすいこまれた。
「し、神父さま……?」
カソックに身を包む男が、老婦人を抱きあげたまま階段を一段一段ゆっくりと降った。
「……神父さま。ありがとうございます。わたし、また膝をだめにしてしまうところでしたわ……」
「お怪我は、ありませんね?」
神父が老婦人の膝頭をさすった。彼女はじぶんの膝に添えられているかれの手を気にした。
老婦人の頬が赤みを差した。彼女は両頬が熱くなったのを感じ、神父に触れられている膝も頬と同じくらい熱をだしていることがわかった。
神父は階段を降りきると、老婦人をカソックの腕から降ろした。
「は、はい。だいじょうぶですわ。……神父さま」彼女は神父の手をにぎった。「きょうも一日、健やかにすごせましたわ」と、彼女はかれに見惚れていた。
「神はあなたとともにいらっしゃいます。……神の祝福があらんことを」神父は十字をきり、その手を彼女の手の甲にかさねた。
老婦人が深くこうべをたれた。
「アーメン……森義矢さま」
森義矢は老婦人を教会の前の畦道で見送っていた。彼女は上気した顔に杖を片手に持ち、いまはしっかりと地を蹴って歩いていた。丸まっていた背筋は伸び、足どりは軽やかで、さきほどとはまるでちがい健脚のような姿に見えていた。森義矢は彼女の背中が見えなくなるまでその場に立っていた。
なだらかな傾斜の坂道の奥に老婦人の姿が見えなくなった。
森義矢はじぶんの掌を見つめた。掌が黄金色に輝いていた。
「……彼女もまた……迷える子羊のひとり……」
掌の血潮が微熱にかわった。かれの掌がもとのとおりにもどった。
森義矢は教会に踵をかえした。礼拝堂の扉口に向かう階段をのぼりかけて、芝を敷いた駐車スペースに車が二台停まっていることに気がついた。外国製の高級車と荷台に廃材を積んだトラックだった。
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