♰62 懐妊

1/1
前へ
/71ページ
次へ

♰62 懐妊

 麻里亜が両手で腹を抱えこむように添えてから、腹をさすりだした。すると彼女の腹が臨月の妊婦のように膨らんだ。  彼女の着ているネグリジェがマタニィティードレスのようになった。 「こ、これは!?」  森義矢は困惑した。が、にわかに彼女の姿に魅入られた。  愛おしそうに腹を撫でている麻里亜の姿は美しかった。彼女は光り輝き、神々しく、この世のものすべてのなかでいちばん美しい姿だった。  森義矢はその姿にこころがふるえた。こころの底から愛おしい気持ちがわきおこり、かれの目から涙が(こぼ)れはじめた。 「神父さま。あなたの子よ……わたし、あなたのこどもを身ごもったの」 「麻里亜……それは、ありえない」 『神父よ、子は宝だ。至宝である』    森義矢の頭のなかに思念が語りかけてきた。 (だ、だれだ!)   「あなたはわたしを愛してくれたわ。いくつもの夜をあなたといっしょに過ごしたわ」    麻里亜が大きなお腹をさすりながら、憂いのこもった目で言った。    麻里亜の姿がさらに神秘さを増し、いまや彼女は髪の先まで光り輝いていた。 『……神父よ。認めるのだ』 (う、美しい。まるで聖人のようだ)  森義矢は茫然自失となって、床に(ひざまず)いた。    「たしかに、わたしたちは神の御名において交わった。だが……」 (落ちつけ! これは罠だ!)  森義矢は自身を叱咤した。  麻里亜が枝垂れる髪のあいだからうるんだ目をみせた。 「神父さま。わたしは悪魔かもしれないけれど……あなたの子を身ごもったのなら、この子は、きっと神の子よ」 『これは奇蹟だ。これは神の意志によるものだ』 「わ、わたしの子ではない」 (だが、わたしがこどもを授かったとすれば? これほど喜ばしいことはない)  森義矢は恍惚となった。まるでわが子を抱くように腕をまるめると、あたかもそこに赤子がいるように見つめて微笑んだ。 「ああ。なんと、かわいいこどもなのだろう……」 「――そうよ。……あなたの子よ」  森義矢の腕のなかで”ひかり”がふきだしてきた。まばゆいばかりの白光がかれの顔を照りつけた。――かれはその”ひかり”のなかに神を見た。 ――偽りの友愛。授かることのない赤子。 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による』 ――わが、こころと肉体のまことを誘惑する邪悪なる虚構。   『あなたの神である主を試みてはならない』 ――幸福はここにあらず、真の(さち)は苦しみを解き放つことにある。 『あなたの神である主を拝み、主だけに仕えよ』  「あなたは、きょうから――パパになるの!」麻里亜が言った。 ――このまやかしこそが、悪魔の仕業だ。 「ならば、これを見ろ」森義矢が言った。
/71ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加