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♰69 悪魔祓い
湯田と西門は、火の粉を舞いあげて燃える麻里亜の家を眺めていた。
湯田は煙草に火を点けた。「神父と未亡人の女の焼身自殺だ。おれたちは、たまたまその現場に出会しただけだ。……関係ねえぜ」湯田は煙を鼻から吹きだし渋い顔でいた。
ふたりの耳には遠くから半鐘の音がきこえていた。おそらく町の中心部にもこの火の手からのぼる黒煙が見えているのだろう。島の消防団がいずれここに押しかけてくるだろうが、〈西浦〉の狭い道には消防車は入れないだろうし、押し車でも坂道は苦労するだろうから、しかもここは〈西浦〉のはずれにあるときている。到着にははやくても30~40分くらいはかかるだろう。
火柱が噴きでる二階の窓の奥から、なにか光が閃光した。湯田は顔をそむけて手を翳し、目を細めて見やった。
「なにかに引火しやがったかな?」湯田は顔をそむけたひょうしに瀬戸路の姿がそばにないのに気づいた。
「あいつ、なにしてるんだ?」湯田が地面にへたり込んで、頭を抱えてうずくまっている瀬戸路を見た。「なんか、へんなモノでも食ったのか?」
湯田は吸いかけの煙草をプッと吹き捨てた。
ちょうどその煙草の先が火事の明かりに寄ってきていた一匹の蛾にぶつかっていっしょに地面におちた。湯田は地面にのたうって鱗粉を撒きちらす蛾を踏みつけにじった。
「あんた……まるで悪魔のような人だなぁ」西門が言った。
湯田はまるで天罰だというように理不尽な仕打ちを蛾におこなっていた。
「そう言いうなよ。おれたちはひとを殺したんだ。おれたちはいま地獄にいるんだ。だったら、悪魔になったほうがいいって話だ。悪魔にとって地獄は天国だからな……」
「ハ、ハ、ハ、うまいこと言うね!」西門が高笑いした。
湯田は西門に訝し気な目を向けた。
「……赤ん坊はいないよ」西門が言った。
「なんだって?」
「さいしょから、いないんだよ」
「まてよ。じゃ? 麻里亜は妊娠していなかったって言うのか」
「ちがうよ」西門が言った。「わたしが堕ろしたんだ」
火の粉が舞い、ひと際大きな火柱が立った。ひと際大きな音もした。まるで掛矢で地面に杭を打ち込んだような音だった。黒煙をあげていた家屋の屋根の一部が崩落した。
「なんだって? それじゃ、いま、あの中には神父と麻里亜だけが……」
「……今回は、おもいのほかうまくいったよ。これでようやく神父を始末することができた」
「て、てめえ」湯田が西門に拳銃を向けた。「どういう料簡だっ!? あんたが麻里亜が妊娠したと言ってきたんじゃねえか」
「おいおい、湯田さん。あぶないじゃないかね」西門が言った。「それよりも、わたしはあんたのことが気に入ったよ。いや、それどころじゃない。あんたのことが好きになったんだよ」西門が肩をすぼめて言った。
「き、気持ちのわりぃこと言うんじゃねえよ!」
西門の頬が紅潮していた。はにかんだような顔にもなっていた。
「あんたに犯されて、わたしは、ほんとうにしあわせだったんだ」
「や、やめろ! あ、頭がおかしくなっちまいそうだ!」
「さっ、さあ、こっちに来てくれ。キ、キスをしよう! わたしはあんたを愛しているんだ」
「お、おい! こっちに来るな! よるな! ――来るんじゃねえっ!」
湯田は顔中からあぶら汗を垂らしていた。
ひと筋の煙が湯田の顔の前にくずれた螺旋を描きのぼっていた。両腕を胸の前で開いていた西門の腹のあたりが赤く染まっていた。
湯田は西門に銃口を向けたまま立ちすくみ、西門はいちどじぶんの腹に目を落とし、両手でまさぐったあと、眼鏡の奥の目を見開き、湯田の顔を見つめていた。
「あーっ! あーっ! あーっ!?」
西門が血まみれの手のひらを見てわめきだした。
「ひ、ひーっ!」
湯田はまた撃った。次に放った弾は手がふるえていたので、西門の向う脛に命中した。西門はもんどりうってひっくり返り、脛を押さえながらのたうちまわっていた。
「な、なにをしているんです?」
と、瀬戸路がフラフラとよってきた。
「う、うるせい! こっちに来るな!」
湯田が銃口を瀬戸路に向けた。
「ああ! あんた! 西門さんを撃ったのですか?」
瀬戸路はふるえる手で血の海でうめいている西門を指さした。西門が湯田に手を差しだしていた。顔にはうすら笑いもあった。
「こ、この、へ、変態やろう!」
湯田は西門につづけざまに銃弾を撃ちこんだ。西門はからだから血しぶきを出したあと、痙攣をしていた。
湯田はへたりこんだ。
「ああ? な、なんてこった?」瀬戸路が無惨な姿の西門に近づき、それを見下ろしていたが、顔に受けた焼熱でふり返り、麻里亜の家を見た。「こ、これはどういうことです? な、なんで家が燃えているんです?」
「てめえも、わけがわからねえことを言ってるんじゃねえ!」湯田が怒鳴った。
「わた、わたしはなにも覚えていないんだ。たし、たしか、いつもの乱交パーティーをやっていたんじゃなかったですか?」瀬戸路がしどろもどろになっている。「それに、なんでこんな服を着てるんだろう?」
「なに寝惚けたことを言ってやがる! いったい、いつの話しだよ!」
「と、とにかく、警察と救急車を呼ばなきゃ!」と、瀬戸路がヨロヨロと〈西浦〉の集落のほうに向かって歩きだした。
瀬戸路の肩がうしろから引っぱられた。瀬戸路は身をつんのめらせふり返った。
「は、はなしておくれよ。湯田さん」
「そうはいかねえ。もともとおまえが考えたことじゃねえか!」湯田が拳銃を突きだした。「さいごまで責任とりやがれ!」
ふたりはもみ合いになった。おたがいに顔面を、腕を、掴みあい、拳銃を掴みあい、もみくちゃになった。
銃が発砲した。だが、どちらも倒れることはなかった。
瀬戸路は湯田の胸板を蹴り、身をひるがえした。
再び銃声が鳴った。瀬戸路の後頭部から鮮血が噴きあがった。髪の毛がくっついたひと塊の肉片がぽとりと地面に落ちて長身の男が膝を折り、倒れていった。
湯田は地面に目を落とした。うつ伏せに倒れた瀬戸路の頭部から血が広がり、ドンドン広がっていった。それを見て湯田はおもった。おもったより血ってのはからだから出るのだな。樽から酒ををぶちまけたようにジャンジャン出てきやがる。
湯田は背後にふり返った。血だまりに横たわる西門のからだが浜で陸に打ちあげられた魚みたいにふるえていた。
湯田はにわかに嫌悪感がこみ上がり、西門を撃った。狙いを定めて眉間に撃ちこんだので眼鏡が真っぷたつに割れて飛んでいった。
湯田は銃口をさげると、ひとりごちた。「いったい、こりゃ、なんなんだ? え?」
そのとき、湯田は西門の白目を剝いた顔の口から茶色い虫が這いでてきたのを見た。それは、西門のからだの上を這って、地面に降りた。いちど湯田を気にしたように触角を揺らし、カサコソと藪のなかに消えていった。
湯田は銃口をじぶんのこめかみに当てた。「……あ、……悪魔に憑りつかれていたのは、お、おれじゃねえのか?」湯田は目をつよくつむって人差し指にちからをこめた。
カチッ。――カチッ、カチッ。
湯田はじぶんを情けなくおもった。「ちくしょう! ……どいつもこいつも……おれをバカにしやがって!」と、拳銃を地面に叩きつけた。
湯田の両側には、血の池に顔がもうすっかり沈みきって頭だけが見えている西門と、からだを硬直させて身動きひとつしない瀬戸路が、いまだに頭から血を噴きだしながら転がっている姿があった。
湯田は、いま冷静になりつつあった。
「……まてよ。このまま逃げちまえばいいんじゃねえのか? ……そうだ! その手があるじゃねえか――」と、駆け足でトラックに向かった。
運転席のドアを開き、足を一歩あぶみに掛けたが、急に息が詰まり、そのまま動きがとまってしまった。
「おっ?」
湯田はかぶりをさげた。じぶんの作業着の腹からたれ下がっているブッ太いゴムチューブのようなモノを見とめた。湯田はおそるおそるそれに手をのばした。
ブッ、ブッ、ニュリッ、ブリッ。
妙に手触りがよかった。はずむような弾力が手のなかにあり、盥の中のウナギをつかんだような感覚だった。
痛みはなかった。おそらくはこのとき湯田の肉体は麻痺していたのだろう。かれはじぶんの臓物を手に持ちながら戸惑っていた。
湯田に恐怖が生まれた。きっと、もうすぐとてつもない痛みが襲ってくるのだろう。とおもうと、いっきにからだじゅうから汗が噴きでてきた。
「あぅ……あぅ……あぅ……」
湯田はたれ下がっている腸をベタベタと気持ちがわるいが腹のなかに押しこんだ。
まだ痛みはこなかった。湯田は息をするたびズルズルと出てくる臓物を無理やり腹のなかに収めた。そして、作業服の上着の裾をズボンに捻じこみ、下着をひっぱって傷口にブリーフのゴムを当てがった。
まだ痛みはやってこなかった。だが、湯田のからだがふるえだしてきた。
「ち、ちくしょう……からだが、寒い……」湯田は轟々と燃えあがる麻里亜の家を見た。「あ、暖かそうだなぁ……」
湯田はさいごの勇気をだして、腹にちからをこめると両腕を前後にふりだした。腹にチクリと痛みが生じた。足をあげ、つま先を前にだして地面を踏み、もう片方もそれと同じにして前に進んだ。チクチクと腹が痛み、ドロリと腸がまた出てきた。湯田の顔から血の気がひいた。腸は湯田の股間からたれ下がり一歩進むごとにひと節ごと腹からズルリと出てきた。
湯田のからだが段々と躍動していった。かれの顔はいたってまじめで、こころなしか意気揚々としているかのようだった。
湯田は両手を二度打って、もういちど打った。
両手を上に高くあげた。
腕を末広がりにしてこうべをたれた。
再び両腕を高くあげ、つま先から一歩だし、右手を上に、左手を胸前に、かしげた顔を右に向けた。
つぎにその対称の動作をした。
かれの鼻から息がぬけた。
かれはそれを繰りかえした。
湯田は盆踊を舞っていた。燃える家を篝火に見立て、黒色の炭と化している柱が見える二階の骨組みを櫓に見立てて踊っていた。
かれの影法師が長く伸び、揺れ動き、ときどき炎が照らした二体の死体を陰にしながら湯田は踊っていた。
「お、おれも、悪魔だった――」
もはや、どこにも焦点がさだまらない目は、赤々とした明かりにだけ知覚が反応しているようだった。かれは林や藪からとび起きてきた虫けらと同様に燃える麻里亜の家に向かっていた。
「ちゃんか、ちゃんか、ちゃん、ちゃん。ちゃんか、ちゃんか、ちゃん――」
湯田のからだは、またたく間に火にとりこまれた。
かれの臓物が香ばしいにおいをあたりにただよわせた。
かれの顔に火が引火した。そこにはどんな想いがこもっているのか? 焼けただれていく顔にかれの想いを読みとることは難しかった。
まだ白い部分が残っていた柱に火達磨のからだがぶつかると、家屋のすべてが崩落し、小柄な男はおし潰され、消えた。
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