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♰70 かけがえのない宝物
早朝の教会にひとりの老婦人の姿があった。
彼女の手にはもう杖はなかった。彼女は膝を折り、十字をきって、指を組み、朝陽に照らされた教会にむかってこうべをたれた。
彼女は昨夜、床のなかで急に目が覚めた。――それは不吉な胸騒ぎだった。そして、まんじりともしないで夜をあかしたあと、彼女は陽がのぼるまえに自宅を出て白んだ空のなか静かに佇む〈南浦〉のこの教会を訪れた。
老婦人は礼拝堂の扉に触れた。扉はすうっと開かれた。内部は床から冷気がのぼり朝靄のかかったようで、内陣の奥の祭壇の色彩がうすく感じられた。
静けさがあった。彼女は開けたままの扉の外から鳥のさえずりをきいた。
彼女はひかえめに耶蘇と聖母にこうべをさげると、長椅子に腰掛けて指を組み、いずれかの扉から神父・森義矢があらわれるのを待った。
――老婦人は礼拝堂の長椅子の末席にすわっていた。礼拝堂の開いた扉から夕陽が射しこみ、内陣の奥の礼拝堂を黄金色に照らしている。
彼女は祈りつづけていた。
彼女は、ふいにおもって立ちあがり、ふり返った。彼女は開けはなった扉口を見た。が、そこにはだれもいなかった。そして、その上部の窓のステンドグラスに目をやった。西日で色鮮やかに見えている。
そのモザイク柄の絵を見て、彼女はおもった。
「まるで、洗礼をうけている若人は、森神父さまのようにみえるわね」
扉口の向こうに人影が見えた。
彼女はすぐさま身廊に歩みでると、扉口に向かった。
そこには森義矢ではなく老人の姿があった。老人は泥まみれのように汚れ、ところどころ破れた服の姿をしていたが、しっかりとした足どりで老婦人に気づいたように顔をむけると彼女のほうに近寄ってきた。
「堀田のおじいさん? あなた? いったい、どうなされたのです?」老婦人は訊いた。
「……どうもこうもない」堀田老人が空を見上げた。「さあ、あんたもこちらにいらっしゃい」と言ってにこりと笑った。
老婦人は堀田老人にうながされて礼拝堂から出ると、堀田老人が指さす空を見上げた。
彼女は、礼拝堂の屋根の上に、一条の”ひかり”の帯が天空から射しこんでいるのを見た。
「ま、まあ?」
「これは吉事のようじゃのう」
老婦人は天の”ひかりの回廊”にのぼってゆく三人のひとの姿を見た。
――かれらは顔を天に見上げ、まなこが”ひかり”で煌いていた。
――そして、たがいに見つめあうと、再び天を見上げ、まっすぐにのぼっていた。
堀田老人が老婦人のそばに寄った。そしてかれらは見つめあって、沈黙した――。
老婦人は、ハッとしてふり返り、開け放たれた礼拝堂の奥を見据えた。
彼女が、身廊を奥に向かって駆けだしていた。
老婦人は主と聖母の前でかがみ込んだ。堀田老人も彼女のあとを追って身廊のなかほどにまで着くとその光景に息をのんだ。
「オギャァ、オギャァ、オギャァ――」
老婦人は腕のなかにお包みに包まれた赤ちゃんを抱いていた。
堀田老人はそばに寄ると彼女の腕のなかをのぞきこんだ。
「ほんじつは、まことに吉辰の日、じゃのう」
磔刑のキリストは情愛の眼差しで、石膏像のマリアは慈愛の笑みでいた。
「ほんとうね。なんとも神々しいお姿の赤ちゃんだこと」
不動明王は、天地眼で赤ちゃんのなかを透かし見た。――そして、くもりない”ひかり”をみとめた。
『ん、んんっ。オッホン!』
と、堀田老人は頭のなかできいた。
『からだのなかを覗くなんて、無粋ですわよ』
磔刑のキリスト像が片眉を吊りあげて、聖母はたしなめるような表情でいた。
『い、いや。これは、ご無礼いたした』
不動明王は照れくささから、頭のうしろを掻いた。
磔刑のキリストはにこやかな笑顔で、聖母はうっとりと赤ちゃんを見ていた。
「まあ。ほんとうに愛らしい赤ちゃんだこと……」
そのとき、礼拝堂の扉口にあらわれたものがあった。堀田老人(不動明王)はその気配に気づき、やにわにふり返った。
「こ、これは……なんとしたことじゃ?」
小さな影があった。それは、ほんとうに小さい姿で、まるでいまさきほど生れてきたかのような姿だった。
「クウーン……」
ヨロヨロとおぼつかない足どりであらわれた子犬が、か細く鳴いた。
「おーっ、よし、よし」
堀田老人が駆けよった。「なんと! めんこい子犬じゃろう」老人は子犬を懐に抱きかかえて老婦人のもとにもどった。
かれらは、”博愛の空気のなか”お包みの赤ちゃんと、子犬をならべて愛おしんでいた。
「まあ! おじいさん。あれをご覧になって」
老婦人が指さすほうに堀田老人は顔をあげた。
そこは礼拝堂の入口の上のステンドグラスだった。モザイク模様の絵のなかには洗礼の情景が描かれていた。洗礼者のふたりから洗礼を受けている赤子の姿が中央にあり、その足許には子犬が駆けまわる姿があり、その奥にその洗礼を見守るように佇むふたりの人物の姿もあった。ひとりはここにいる老婦人のようにみえ、もうひとりは炎を背負った仏のような姿だった。
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