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♰8 真具田麻里亜
七月初旬。旧暦の盆まえのころ。南洋から中心気圧950ヘクトパスカル、最大瞬間風速60メートル/秒の超大型台風が接近していた。本土から400km離れたこの離島の空は曇天に覆われ、島の数少ない信号機やヤシの木々が嵐の前兆を告げる弱中風の風で軋んでいた。気象庁が発表した台風の進路予想では間違いなくこの島は直撃だろう。台風は東シナ海を北に進路をとっていた。
島の各所では、近年まれにみる大型の台風接近に備えて対策が講じられていた。港では延縄漁船が繋留され、本土との連絡船は姿を消していた。家屋の前にはうず高く土嚢が積みあげられ、島の住人の一時避難先となる公民館の中にはすでに大事をとって数人の老人らが身を寄せていた。
その公民館の前の広場には夏祭りをまえにすでに設えてある盆踊り大会用の櫓があった。いま、鉄柱や筋交いにロープが張られ、角材で補強し、強風で崩れないよう作業がおこなわれていた。
「――よし。これで、だいじょうぶだ」
島の青年団の若い衆が世話役の堀田幹夫に向かって言った。堀田老人はさいごに自身でも櫓の固定具合をたしかめたあと、かれらに向かってうなずいた。
「じいさん。家まで送ってってやろうか?」若衆のひとりが言った。「いまから〈浦北〉に帰るんだろう?」
「いいや。だいじょうぶさ」堀田老人は合羽のひきしぼったフードの中から返事した。「ちょいと、寄るところがあるからよ」
灰色の空からはいよいよ雨が降りだしてきていた。島の数少ない若者らは、それぞれの家で帰りを待つ家族のもとを目指して足早に帰宅をはじめた。
「こんやの台風は大きいぜ。用事を済ませたら、さっさと家に帰りなよ」さいごに駆けだしたひとりが老人に言った。
堀田老人は、かれらの背中を見送ると、公民館の敷地を出て右に折れ、いちどからだをのけ反って腰を伸ばしてから、西の方角に向かって歩きだした。老人は集落が傾斜地になっている〈西浦〉の地区に向かっていった。
堀田幹夫の家は〈西浦〉から北東の集落〈浦北〉にあった。老人はこれから強風で歩きにくくなる町道や海沿いの道を避け〈西浦〉の山中の山道をぬけて帰宅することにした。それはやや難儀な山越えの帰路になるが、横なぐりの雨粒で濡れねずみになったり風にあおられてすっころぶことはない。この島の山中は、嵐のときはおもいのほか風雨をやわらげてくれることを老人は経験から知っていて、その経路をえらんだのだった。
堀田老人は〈西浦〉の小径を縫うように進んだ。家屋が密集した曲がりくねった道には人っこひとり、猫っころ一匹見えなかった。だれひとりとして外を出歩いてはいなかった。
老人は空をあおぎ見た。空の雲は燻られた煙のようで、しかもそれが陽光を内包しているように黒光りし、天蓋のように地表を覆っていた。まるでなにかを示唆・暗示しているかのようであった。
堀田老人は〈西浦〉の集落を奥のほうにまできたところで、ふと小径の向こうの角をだれかが曲がったのを見とめた。
「だれだ?」老人は足をはやめた。「こんなときに、外を出歩くとは?」
老人が角を曲がると前方に黒い衣服の人物が、もう随分さきにいるのが見えた。老人はひと声かけようかとおもったが……、やめた。それはその人物の姿が不審にみえたからだった。
弱中風の風が吹き、雨も潸々と降っている。その最中を傘もささずに黒く薄い服だけを着て歩いている。遠見からだが、女の姿だと老人はみとめた。
堀田老人はうしろをふり返った。背後のなだらかな下り坂のほうは〈西浦〉のはずれだった。
「もしや? ……あの……女……」
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