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♰9 真具田麻里亜2
女は〈西浦〉の入り組んだ小径を縫うように進んでいた。まるで、幽鬼のように。
堀田老人は気配を消し、気取られぬようにしてあとを追った。
老人はおもいだしていた。……過去に醜聞があった女だ。
それは、あの女の夫の死にまつわることだった。あの女の夫は二年前原因不明の病で急死したのだった。
昔日のいっとき島ではあの女のわるい噂が流れた。
〈西浦〉のはずれに住むあの女の夫は病気で死んだのではない。あの女との情事の果てに死んだのだ。そういう噂だった。
――いまから三年前、あの女はどこからともなくふらりとこの島にあらわれた。軽装な出で立ちだったが観光客のようではなかった。女はこの島の民宿にひきこもるように逗留して、しばらくのあいだとくになにをするわけでもなく過ごした。どこかわけありなふうの女で、島の噂好きのあいだでは、きっと夜逃げでもしてきたのだろう。いや、自殺目的でこの島に来たのだろう。と胡散臭くささやかれた。――さいわいなことだが、島ではいまをもって自殺した者はいない。
数日が過ぎて、女はそのまま島に居ついてしまった。そして間もなくこの離島唯一のスナックで働きだした。
女は蠱惑的な美貌の持ち主だったので、たちまち島の男らを魅了することになった。さびれていたスナックは毎夜あの女の酌をもとめて男どもであふれかえるようになり、いっときこの島にもあった隆盛のころをおもいださせることになった。あの女を目当てにしてうらぶれた店に訪れた何人もの男があの女に言いよった。だが、女に惑わされ、色恋に溺れ、ふぬけの抜け殻となってしまった。あの女との恋に破れ傷心から島を出ていった者もいた。あの女にこころを打ちくだかれて鬱々となって家から一歩も出なくなった者もいた。しかし、それでもあの女に気に入られようとして場末のスナックに通う男どもの足が途絶えることはなかった。
そんななか、あの女の亡夫だけがあの女のこころを射止めたのだった。かれは、若く、男前で、血気盛んで、威勢のいい漁師だった。かれははやくに両親を亡くしていたが、実直に育ち、友人からの人望も厚く、誠実な男、正直者で、正義感の強い男だった。
あの女はそのかれを見て目の色を変えた。かれにぴたりとより添い、いっときもかれのそばを離れようとはしなかった。――それは、恋した女の態度というよりは、獲物を捉えた獣のようだった。と、語ったのは、先月齢九十でこの世をさった、いまは亡きスナックのママの言だった。
そうこうしているうちに、かれらは所帯をもった。はじめのころはふたりは幸せそうに見えていた。だが、あの女の夫となったかれは日に日に様子がおかしくなっていった。血気盛んだった男前の若者は、目が落ちくぼみ、体躯は痩せほそり、素行も悪くなっていった。前向きな希望に満ちていた目は、失望のにごった目にかわり、仕事もしなくなり、とうとうだれの助言にもきく耳をもたなくなってしまった。きっと、あの女の妖しげな魅力に骨抜きにされてしまったのだろう。かれは夜ごと生気を奪われ正気をうしなっていくような有様だった。――とは、かれの友人らのささやきだった。
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