♰1 堕胎

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♰1 堕胎

 医師は女のからだから、塊をとりだした。手には掻把(そうは)に使ったラミセルを握り、もう片方にはふるえる手で血にまみれたそれを持っていた。 かれは、虚ろな眼差しで、それが出てきたところを見つめていた。  以前、赤銅色に照っていたその場所は、甘美な蜜が(あふ)れるところで、口唇を添えて舌尖で()ねたり、そそり()った活塞(かっそく)を濡れた肉襞に()じりこんで快哉(かいさい)の往復運動をおこなった場所だった。肉襞の奥の肉管から分泌される潤滑油が、肉棒の表層を滑らかにし、内壁に吸付くような感触をもたらしてくれた。そこからきこえる猥音は、およそ美麗な女体から発せられる音にしては、あられもない音で、その眉目秀麗(びもくしゅうれい)な容姿にしてこの落差かと、(さげす)んで、悦に()って、(たの)しんだ。――男の耳には、女の大歓呼よりも淫靡(いんび)な体液が奏でる猥音のほうが気分を高揚させられた。その温液は秘部から()れ、下腹部を滴らせ、陰嚢(ふぐり)のほうにまで伝わるほどに奔流(ほんりゅう)した。雌雄の肢体と陰陽を和合する行為の果てに、噴射口から射出した白濁液を女体の最深部に注入し、奥底の頸部(けいぶ)から逆流して、陰唇のふちに(こぼ)れでてきた白濁液の樹股の(うろ)から垂れる樹液のような有様を鑑賞し、愉悦した。――肉棒の管に体液が通り過ぎたときの内腿の酔痺れのふるえと、腰の野放図な突跳の快感の余韻を味わいながら。 ――だが、いまその場所は、小丘の(ふもと)に不吉な気配を放つ薄気味わるい洞穴のようで、ぽっかりと開いた開口部のふちには、血が滴り、汚物とぬめった薄膜で覆われた若布(わかめ)がへばりつき、腐臭を放つ場所となっていた。  医師はわれにかえると、塊を膿盆(のうぼん)に投げ捨てた。 ――なんてことだ。もう形になっていた。  医師は汗を(ねぐ)った。目を(しばたた)かせて、ゴム手袋の甲で顔を無造作に拭ったので、レンズには粘り気のある血が付着し、視界は雨粒のついた窓ガラスのようになった。  医師は驚いて眼鏡をはずすと、ぼやけた目で再び女の股座(またぐら)を凝視した。 「これでいい……あとはどうにかして、この女を納得させるだけだ」  医師は数種の薬品の(ビン)類と、注射器の転がった机からティッシュペーパーをもぎとり、眼鏡を()いた。   ――ぐっすりと、ねむっている。    眼鏡を掛けて女の顔を見た。 ――いや、まるで糸で縫いつけたかのように瞼を閉じ、苦悶の表情でねむっている。  あぶみ(﹅﹅﹅)の上に固定した足首から、下半身がMの字にみえて、血や汁が飛び散っていた。医師はそれらを丁寧に拭うと、手首足首の拘束をほどき、白磁器のように(つや)やかな女の足首に垂れさがっている下着をもとのとおりにもどして、股を閉じた。  女がベッドの上で、からだをまっすぐに伸ばした眺めになった。  医師はシーツで女体を覆い――傍目(はため)にみても何事もなかったかのようになった――、眼鏡をはずして、再び汗を拭った。(ひたい)がゴム手袋に付着していた血で太くハネ(﹅﹅)られた。ふと、  医師は外からの視線を(さえぎ)ったカーテンのほうを向いた。白い遮光カーテンの隙間からは、西日が射しこみ、よどんだ生温かさを内部に伝えつつ、そのカーテンのふちを黄金色(おうごんしょく)にかざっていた。  かれは鼻から息をぬいた。 ……不思議だ。妙に気分が清々(すがすが)しい。だが、  (もや)がかかって、寝惚けているような意識が徐々にはっきりとしていくにつれて、吐き気がこみあがってきた。医師は手に持った黒いビニール袋の中に嘔吐を繰りかえした。鼻の奥と喉が痛み、()い臭いが鼻孔にへばりついた。 ――わたしは……い、いったい、なにをしているのか?   と、じぶんのとった行動に対する疑念がわきおこり、頭のなかで、後悔・自己嫌悪・背徳の念がさわぎたてだした。  その感情――良心――を、掻きわけ、なぎ倒しながらあらわれた声が医師にささやいた。 『これでいいのだ。なにも案ずることはない。だれしも、じぶんのことが可愛いのだ』  腹に手を添えた女の笑顔がよぎる。 『じぶんを責めることはない。厄介の種だ。厄介事など、背負いこむ必要は、さらさらない』  涙を流して首を横にふる女の姿がよぎる。 『だれも気づかない。この女ですら気づいてはいない。だが、用心に越したことはない。やるべきことをいますぐやるのだ』  見開いた目に血走った眼球を向けた女。腕をふりまわして抵抗する女。暴れる女の腕を掴むじぶんの手と、注射器を握ったもう片方のじぶんの手。 『それにもう、あともどりはできない。すべてを闇に葬りさるのだ!』  刹那、あたりは静寂に包まれた。そして、医師の耳にはその静寂のかなたから、ジリジリと近寄ってくるような高周波の音振が一定の音量できこえだしてきた。  膿盆の上の塊が仰向けの昆虫のように動きだした。それはいちど「おぎゃあっ」と泣いた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)。  医師はかぶりをふった。幻覚/幻聴をふり払い、自分の汚物が入ったビニール袋の口を開き、塊を掴むと、それを中に放りこんだ。   医師はビニール袋の口をかたく結び、それを持って診察室から出て廊下を奥へ進んだ。  住居を兼ねた診療所の裏口の戸が開いた。  医師は、そこに置いてあるペールの蓋を開けて腐臭を嗅ぐと、生ゴミといっしょにすべて(﹅﹅﹅)を闇に葬りさった。
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