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招き猫
(一)
二学期が始まって一週間ほど過ぎた頃だった。
結局のところ、これといったこともなく日常が過ぎて行った。
その間、悠癒と会話らしい会話をしたのは、シャープペンシルの芯の話くらいで、結局『お祈り』に関してはなんの話もしてない。
悠癒が、イラストを描いているという話を聞いてからも、結局そこを仁之助が訊ねるようなことはなかった。
こういう時、これまで育ってきた経験が物を言うのだと思い知る。
コミュニケーション技術を鍛えて来なかったことによる弊害だ。
ちょっとした日常会話どころか、朝、「おはよう」と言うことさえ、複雑に考えすぎて、結局何も言えないのだから。
青春の欠片を拾ったように思ったものの、その欠片をもっと拾って一つの大きなものに組み立てるようなことができない。
人と深く関わることが、難しいのだ。
面倒とか、嫌とか、そういうのではない。
ややこしい問題を出されて、どう手を付けていいか知らないのだ。
公式を知らない問題は、解けないように、仁之助には隣のクラスメートに声をかけることが、どうやって始めればいいのか掴みきれない。
「あ、やべ」
仁之助は鞄の中に、今から使う教科書がないことに気が付いた。
うっかり忘れたのだ。
それを、隣の悠癒が聞いていたようで、仁之助のほうに振り向いた。
「どうしたの?」
「……いや……教科書、忘れた」
「見せてあげようか」
何気なくそう言った彼女を、仁之助は硬い表情で見返した。
「よそのクラスから借りてくる?」
「…………よそのクラスに友人がいない」
「わぁ」
なんの感嘆だ。その「わぁ」は。
と、仁之助は頭の中で突っ込んでいた。
「机、くっつけるのが、恥ずかしいんだ?」
クス、と含み笑いをして、悠癒は悪戯な顔を見せた。
図星だったので、ぐうの音も出ず、表情を固まらせてしまう仁之助。
「仕方ないなぁ。私が隣のクラスから借りてくるから、私の教科書、使っていいよ」
「え? いや、いいよ。面倒だろ」
「ついでだよ、ちょっと友達に用事があるからさ」
そう言うと、さっさと悠癒は立ち上がり、教室から出て行った。
暫くすると、片手に英語の教科書を持って戻ってくる。
そして、悠癒自身の教科書を仁之助に手渡した。
「はい」
「さ、サンキュー」
これで次の授業はなんとか凌げる。
やはり部活をやっている人間は、他のクラスにも友達がいて便利だなと思った。
悠癒から借りた教科書は、自分がもっているものと同じはずなのに、なぜか妙に特別なもののように思えた。
なんだかこれに触れることが、とんでもない罪のように思ってしまうのはなぜだろう。
どれだけ自分のことを卑下しているのだと、仁之助は溜息をついて、教科書を開いた。
やがて、英語の授業が始まる。
該当するページを開いて、教師の話をノートに取っていく。
そんな気怠い夏の授業は詰まらないものだ。
しかし、その日の授業は少しばかり違った。
「……っ」
思わず、吹き出しそうになるのを堪えた。
悠癒から借りた教科書に、落書きがあったのだ。
それも一つや二つではない。かなりの落書き量だ。
デフォルメされた猫のイラストが余白に沢山描かれていた。
女の子が好むような、どこか気の抜けた、だるっとしている猫は、何かのマスコットキャラのようだ。
これを悠癒が描いたのだろう。
なるほど、確かにこのイラストは中々目を引く。
単純な猫の造形ながら、絶妙に砕けた、見ていると心が和むようなイラストだった。
キャラクターデザインなんかで賞が取れるのではないかと思ってしまう。
ふと、横眼で悠癒の顔を見た。
彼女は、仁之助のほうを見ていた。
思いがけず目が合って、少し気まずい沈黙が流れた。
「可愛いでしょ」
こっそりとトーンを落として話しかけてきた悠癒に、仁之助はどんな顔をして返したのか自分ではわからない。
仁之助は、イラスト自体が可愛いというより、授業中に悠癒がこんな落書きをしていたという事実が、胸をくすぐった。
(こういうのが好きなのか)
仁之助は、悠癒のイラストを見て、そんな風に思った。
悠癒のことを、少し知ることができたのが、嬉しいと感じていた。
胸の奥が温かくなり、高揚しているのが自覚できる。
仁之助は、その日教科書を捲り、悠癒の落書きを一つ一つ見て行った。
2Bのシャーペンで描かれたそのイラストは、良い感じにゆるく、見ていると和む。
退屈な英語の授業は、信じられないほどあっという間に終わっていった。
授業が終わると、仁之助は英語の教科書を返した。
悠癒はそれを鞄にしまい、自分が友人から借りてきていた教科書を返しに行った。
そうして、また教室に戻ってくると、彼女はこんなことを言い出した。
「中馬くん、猫みてない?」
「ネコ?」
「うん、黒猫。あのコンビニの辺りにいるかなって思ったんだけど」
「……あ、ああ、そう言えば……」
夏休みのことだが、コンビニの裏に駐輪したとき、黒猫を見かけたことがあった。
「夏休みの頃の話……、つか、お前がウチのコンビニに来た日、あそこに黒猫、いたな」
「ほんと? 元気そうだった?」
「え、いや。チラっとしか見てない。元気かどうかは分からない」
なんだ、猫がなんだというのだ。急に話が進みだして、仁之助は若干困惑していた。
もしかして、彼女の落書きで書いていた猫は、あのコンビニの猫と関係があるのだろうか?
確かに、彼女の落書きの猫も、黒猫だった。
「……明日、休みか……」
悠癒はなにやら考え込んでいた。
そして、自分の中で答えを出したようで、仁之助に向き直った。
「中馬くん、明日ヒマ?」
「は?」
「中馬くんの家に行っていい?」
「は?」
「あの辺、色々と案内して?」
「は?」
――何が起こっているのだろう。
状況に頭が付いていかず、仁之助はまじまじと悠癒を見つめ返したのだった……。
◆◇◆◇◆
ラインの登録を済ませた仁之助は、未だに状況が掴めていなかった。
あれから、あれやこれやと悠癒に言われるまま、連絡先の交換が済み、明日待ち合わせをすることになった。
仁之助は、夕方自室のベッドの上で、ラインに登録された大瀬良悠癒の連絡先を、ぼんやりと見つめていた。
「……明日、ここに来る? 大瀬良が? ……猫探しのために」
悠癒の話はこうだった。
以前、この近所に来た時、黒猫を見かけていて、その猫の写真が撮りたいと言うのだ。
なぜかと問うと、イラストの参考資料にしたいからだと言った。
どこにいるか分からない野良の黒猫より、ペットショップや、もっと言えば、ネットに動画がいくらでもあるから、それでいいのではないかと言ったのだが、悠癒は首を横に振った。
あの黒猫がいいのだと、譲らないのは彼女の拘りなのか、何なのか分からない。
明日、信じられないことだが、プライベートで彼女と会うのだ。これだけが唯一分かっていることだ。
「全然わかんねー」
大瀬良悠癒という少女が、どんどんミステリアスになっていく。
だから、どんどん彼女のことが気になっていく。
それは恋心かと言われると、分からないと返事する。ただ、猛烈に彼女に会いたい、話したいと思うのは間違いない。
「……アカウント名……」
ふと、ラインに登録された彼女のアカウント名が目に留まった。
大瀬良悠癒のラインのアカウント名は『ゆゆゆ』となっていた。そしてそのアイコンには可愛らしい猫のイラスト。
仁之助はブラウザを開き、イラスト投稿サイトにアクセスする。そして、イラストレーター検索で『ゆゆゆ』と打ち込む。
すると、検索結果に幾人かが表示された。
その中の一つ、ラインのアイコンと同じイラストのものがあった。
これが、悠癒のアカウントだろう。
一瞬、躊躇したものの、仁之助はそのアカウントのイラスト投稿ページに入っていく。
「……え、うわ。すげえ……!」
そこには五つのイラストがアップロードされていた。
どれも信じられないほど美しいものだった。
風景画を基本にしており、その風景の片隅に少女が描かれている。
一枚目は、秋の色づいた山々をバックに空を見上げるような少女。
二枚目は、冬のお寺だろうか。少し物寂しい印象ながらに、頬を染めて温かいお茶を飲んでいる少女が描かれている。
三枚目も、メインに描かれているのは風景だ。どのイラストも少女は風景を彩るための飾りみたいに、隅に描かれていたり、中央に小さく描かれていたりする。
描かれている少女も、それぞれ別のキャラのようだ。黒髪の長いストレートの少女もいれば、小学生くらいの小さなおさげ髪の少女もいた。
五枚目が、最も最近描かれたものだろう。アップロードされた日付は八月三十一日だった。
夏休み最終日だ。
「あ……、ここ」
その風景画は見覚えがあった。夏の青空の下、港に浮かぶ古い漁船。
それは間違いなく、仁之助の家のそばの漁港の風景だ。
そこに麦わらの少女が描かれている。日に焼けた肌、アイスキャンディを咥える溌剌そうな少女だった。
おんぼろの小さな漁船と、若々しい少女の対比が、それぞれに味を出しているような気がする。
「海を、見に来たって言ってたな」
もしかすると、このイラストを描くための資料集めに来ていたのかもしれない。
ともかく、どのイラストも、同じ年齢のクラスメートが描いているとは思えない美しいイラストだった。
あの教科書に書いていたマスコットのような猫とは絵柄が違っていて、本当にアレは落書きだったのだと思い知る。
大瀬良悠癒、イラストレーターとしての名前は『ゆゆゆ』。
かなりの実力を持っていると、素人目にも分かった。若干十六歳でこのイラストを描けているのだから、将来的には本物のイラストレーターとして食べて行けるのではないか。
とたん、隣の席の少女から、遠い存在のように思えてきて、仁之助は少しばかり気持ちが冷めた。
悠癒に対しての気持ちが冷めたのではなく、自分の空っぽさを思い知らされたみたいで、不甲斐なく思ったのだ。
「あいつはもう、将来とか決めてんだろうな」
イラストレーターとしてこれから、本気でやっていくんだろうなと考えた。
これだけ描けるならすぐに仕事が舞い込むだろう。
凄すぎる。雲泥の差、月とすっぽんだと思った。
何を浮かれていたのだろう。
明日、彼女と会うのも、彼女がこれからイラストレーターとして猫の資料にしっかりと拘りを持っているからなのだ。
惨めな自分が急に恥ずかしくなった。
「……猫なんて見つかるのかよ」
愚痴みたいな言葉が出てきた。
天才的な彼女の取材の力にさえなれないのではないか?
この中馬仁之助という人間は、どこまで役に立たないんだ?
この世の中に必要とされる人間なのか?
自己嫌悪が膨らみ、仁之助はスマホの画面を消した。
生意気に、同級生に嫉妬しているのだから、始末が悪い。
せめて明日は、悠癒のために凡人が必死に、微力ながら力添えをさせてもらおう……。
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