雲と舟と

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 眼下に見晴るかす雲海に浮かぶ小舟は、毛糸玉がゆるゆると(ほど)けるような動きで進んでいく。その上には、細長い男が細長い櫂を手に、サーカスの曲乗りさながら、舟を操っている。時折、のたうつようにうごめく雲を、器用な櫂さばきですり抜け、しばらくすると、剣山のように突き出した峻険な山並みの裏に消える。  前衛水墨画の巨匠、魯明の代表作〈渡云海〉は五百幅に及ぶ連作で、24fpsで繋げると二十秒程度の動画作品になる。大筆や刷毛だけで描かれた低解像度の映像世界は、作品と向かい合う者を幽玄の境へ導きながらも、その世界との埋まらない距離を演出していて、もどかしさを感じさせる。  そんな彼に憧れて筆を手にした僕だったが、大学に入って絵と中国語を学ぶようになってから、ネットニュースで魯明の失踪を知った。〈渡云海〉は彼の最後の作品になった。  魯明に師事するつもりだった僕は、行き場を失った刷毛を手に夜の町に出た。当時僕が住んでいた町には古くて大きな商店街があった。住宅街のため深夜になると人通りはなく、全長二キロに及ぶシャッターは格好のキャンバスだった。僕はそこに雲海を描いた。完成までに半年かかった。  僕は新しいキャンバスを求めて引っ越した。引っ越すたびに、商店街のシャッターに雲海を描き続けた。〈渡云海〉が映画のように時間を分割して実現したことを、僕は絵巻物のように時間を並列に描くことで表現しようとした。商店街を歩きながら、人は雲の動きと小舟の動きを体感する。 「あんた、魯明?」  五つめの雲海を描いている時だった。耳元で吐き出された中国語には、酒と煙草の臭いが絡みついていて、思わず咳き込んだ。 「魯明だろ」 「なんなんですか、いきなり」  振り返ると、胸のあたりまで顎鬚を伸ばした、仙人のような男が立っていた。ひどくくたびれたジャケットを羽織っているが、みすぼらしくはない。何かの間違いで三十年間待ちぼうけを食った紳士、といった風情だ。 「最近、あんたの絵を買ったんだけど、本物かどうか怪しくってさ。本人なら分かるだろ。鑑定してくれないか」  男はギャラリストだった。慌てて画材を片付けてついていくと、商店街の裏手に案内された。民家の並びに唐突に表れた巨大なガラス窓は、そこが周囲の日常からは切り離された美的な空間であることを示している。そのガラス窓の向こうでライトアップされている作品は、木材と陶器を組み合わせた立体で、テクスチャの異なる二つの素材を融和させずにぶつけあっているところが、好ましく思えた。ガラス窓に近づいてギャラリーの中に視線を走らせる。壁面を探してみるが、魯明の作品らしきものはどこにも見当たらない。 「作品は倉庫だ」  男はギャラリー脇の扉を開けて、階段を下りていった。電気のない暗闇の中、酒と煙草の臭いを追いかける。視界の先で電気が灯され、長い段の終わりが見えた。振り返ると、一階部分に光は届いていない。異様に長い廊下だ。 「さあ、じっくり鑑定してくれ。偽物が混じってちゃ、商品にならないからな」  その口ぶりに奇妙なものを感じつつ、促されるままに中に入ると、そこは巨大な倉庫だった。電気はついているが、光は隅まで届かない。先はどこまで続いているのか分からない程の広さだ。  部屋の真ん中には、天井から吊るされた掛け軸が、遥か視界の彼方まで連なっている。紛れもなく〈渡云海〉だ。男が何か言ったらしかったが、僕にはもう聞こえなかった。気が付くと、走り出していた。  一メートルごとに三枚ぐらいのペースだろうか、かつてネット動画で見た24fpsと同じ速さで世界が変化する。雲がうごめき、小舟が揺らぎ、細長い男が細長い櫂を操る。舟が剣山のような山並みに近づき、男の目が何かを悟ったように閉じる――。  僕は足を止めた。目の前に揺れる一幅を(あらた)める。細長い男は、刷毛を縦にして描かれている。その絵に細部は存在しない。前後の掛け軸も同様に確かめるが、いずれも男の(まなこ)と思えるような描線は一筋も見られない。  十メートルほど引き返し、スピードを落として走る。スローモーションで男が櫂を雲に突き刺し、雲が苦悶に体を波打たせる。男が櫂を持ち上げ、再び雲海に突き立てると、龍の鱗のような飛沫が散る――。  おかしい。  足を止める。一幅一幅を矯めつ眇めつ眺めても、飛び散る飛沫は確認できない。  足元がふらついて、その場に座り込んだ。絵の中で何が起きているのか、分からない。かつて見た時には、こんな仕掛けはなかったはずだ。これは偽物なのか。それとも、僕の目がおかしいのか。 「どうかしたのか」  耳元で囁く声に振り返るが、男の姿は遥か彼方。ぼやけた輪郭と声の生々しさがエッシャーのだまし絵のように結びつき、遠景と近景を混乱させた。 「なんでもない……」  突き出した手の平を、誰かが掴む。引っ張って、僕を立ち上がらせる。 「だれ……」  僕の手の中には、長い櫂が握らされていた。正面を見ると山の裏へと舟を進めていく僕の姿が、背後を振り返ると、雲海を渡ってきた僕の姿が見える。  誰もいない……その世界には僕一人だけだ。  突如、僕は悟った。僕は誰かが操っていた舟の上で、誰かが使っていた櫂を握って、ひたすら同じ雲の上をめぐり続けるのだ。  これは、〈渡云海〉に描かれた時間が再生され続けるための犠牲――。  絵の外では、本物の魯明が、ギャラリストの男にこの絵が真作であることを告げているだろう。
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