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アパートから一歩外に出ると、思っていたよりも寒くて、思わず身をブルッと震わせた。
もう上着も必要無いし、吐いた息が白くなるくらいに寒い朝じゃないけれど、空気は澄んでいてどこかピンと張りつめている。
間もなく夜が明ける。灰色の層を押しやるように臼桃色の雲が広がっていく空を眺めながらゆっくりと歩いていく。住宅街を抜け、彼が行くと言っていたコンビニの前を通りすぎて、橋の袂へとたどり着いた。
思った通り彼はそこにいた。欄干にもたれ掛かりながら煙草をふかしていて、覚えのあるミントの香りが後ろにいる私の所まで漂ってきたような気がした。
こんなに近づいているのに、彼は私の存在には気がついていない。
橋の向こうを眺めている彼の、その視線の先には、本当は何が見えているのだろうか。
ーー『俺はね、一途なんだよ』
そう言って微笑む彼の声が、頭の中でリフレインする。
「やめて……」
私の目の前には、ちょうど一年前のあの日の情景がありありと浮かんでいた。
間もなく地元を離れる事が決まっていた彼の義妹を……彼が抱き締めていたあの光景を。
どうして抱き締めていたのか、私には分からないし、私が見ていた事も彼は知らない。
ただ別れを惜しんでいただけかもしれない。
遠く離れてしまう家族を心配していたのかもしれない。
抱擁自体に、特に深い意味はない。
……何度も、何度もそう思おうとした。
だけど、朝方ふと目を覚ました時に、散歩をしていて川縁を歩いていた時に、朝焼けが綺麗だと感じた時に、朝の澄んだ空気に触れた時に、彼に触れた時に、彼に抱き寄せられた時に……
何度も何度も、あの光景を思い返してしまう。
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