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彼の絵が好きだ。清らかな聖水を見つめているような気持ちになれる。もっと沢山の彼の絵が見たい。そして彼といるあの感覚にもう一度浸りたかった。
「どうされましたか?どうぞお入りください」
ドアの前で考え込んでいる時臣を見つけたのか、彼がドアを開けあの優しい笑顔を向けてくれる。
「す、すいません。少し早かったかなと思いまして……」
「そんなことないですよ。お待ちしていました。どうぞ、中に」
白い扉からその中に入ると絵の具独特の香りがした。天井が高いその部屋は天窓から柔らかな明かりが差し込んでいる。
部屋に入れば壁一面に所狭しと張り巡らされた彼の絵が目に飛び込んできた。時臣は引き寄せられるようにその絵の前に立ち、食い入るように眺めた。
確かに個展にはなかった絵ばかりが飾ってある。優しい色使いと優しさが溢れる絵が並んでいる。
そして八畳ほどの部屋の向こうは庭が広がっている。そこは燦々と太陽の光を浴び、色取り取りの薔薇が咲いていた。
都会の真ん中にこんな穏やかな気持ちになれる場所があったとはと、庭が覗ける窓から光を浴び生き生き咲き誇る花を眺めた。
窓の外には小さなテーブルがある。その上にはデッサン途中のスケッチブックが置いてあり時臣に気付くまでここで描いていたんだろうことが伺えた。
画材が並べられた棚の横にある対面式のキッチンからカップを二つ持って彼は現れた。
「どうぞ」とカウンターにカップを置いて時臣を見て微笑んだ。やはり彼の笑顔は癒してくれる。
「お気遣いなく……素敵なアトリエですね」
「ありがとうございます」
窓の外を眺めている時臣の側に立った彼は、ああ…と何かに頷き時臣を見上
げた。
「庭に出て見ますか?」
窓の隔たりなくその庭に出て見たいと思った。その花々のように光を浴びて見たいとさそわれるようにドアに近づく。
古い木製のドアを古びた金属音とともに日差しが輝く庭へと足を踏み入れる。薔薇の香りと日向の香りが時臣の鼻をくすぐった。
「ここで絵を描くのが好きなんです。 天気のいい日は気持ちいいんですよ」
テラスに出て、テーブルの横の木製の椅子に腰を降ろした。
彼はどこからかホースを引き出してキラキラと光るシャワーをまき散らした。
アーチを描き花弁を濡らしていく。瑞々しく活き活きと花達は喜んでいるように見える。そして彼の幸せそうな表情が時臣の空っぽだった心を満たしてくれるようだった。
満たされたいと思い尽くしてきた空っぽな心が、愛されているわけでもないのにこの空間が心を満たしてくれる、それは彼が醸し出すこの場所にいるからだろうか。
彼の絵も彼のその表情も見ているだけで絵画を見ているような気分にさえなり癒される。
ここにはなんの駆け引きもなく、ただ与え与えられ共に喜んでいるように見えた。
その温かな空間に心が満たされていくようだった。
感じたことのない充足感に涙がこぼれ落ちた。そんな時臣に彼は何も言わず涙をそっとハンカチを差し出してくれた。
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