眠り姫は意外としぶとい

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 意識が覚醒した時、最初に鼻にかすめたのは、アルコールや薬のよくわからない匂いだった。うっすらと細く開いた目に最初に映ったのは白い天井で、白いカーテンからは温かい光が漏れ出ていた。 「……ん」  喉を鳴らす。かすれた声は、ずっと声帯を動かしていなかったことを告げるように、軋んだ歯車を想像させて不愉快だ。  私が喉を鳴らしたとき、「先生……!」と枕元を触られる。誰? と思って頭上を見たら、それは看護師さんだった。枕元にはナースコールがあり、それを押したという訳だ。  すぐさまこちらにサンダルの音が響き渡り、それと同時にバタバタとした足音が続く。私は寝たふりをしようかと、完全に覚醒してしまった頭を恨めしく思った。  光だけはそよそよと優しげに揺れ、木陰は楽しげにそよぐけれど、私を慰めるにはいささか頼りない。  これからもっともっと面倒臭いことがはじまるのだとしたら、寝てしまった方がまだマシな気しかしないのだ。 ****  入院着をまくられて、体中を調べられる。聴診器をあちこちに当てられて、レントゲンを撮り、血液検査をされる。  車椅子に乗せてくれたとは言えども、検査をするためだけに病院内をあちこちハシゴさせられてしまうのには疲れた。全部が終わったときには、私はすっかりとくたびれてしまった。  私が起きたのを見た瞬間、慌ててナースコールを押した看護師さんは、私を気遣わしげに見ながら、車椅子をゆっくりと押してくれた。 「大丈夫? 起きたばかりなのにごめんなさいね、こんなに連れ回してしまって」 「構いません」 「ごめんなさいね、ご家族には連絡しているから……」 「あの人たち来るんですか?」  私に気を使ってくれているとわかっているのに、私の返事はこまっしゃくれた言葉しか出て来ず、私の言葉に看護師さんは言葉を詰まらせてしまった。私の車椅子を押してくれる手は荒れていて、看護師さんって大変なんだなあと思うには充分だった。  やがて看護師さんは一瞬見せた困った顔を引っ込めると、笑顔をつくった。その笑顔を見ていたら、この人はプロだなあと私は思うのだ。嘘をつくプロ。私と同じだ。 「あなたのことを心配していたんだからね、だってあなた……」 「別にお世辞はいいですよ。だって、看護師さんも私のこと知らないでしょう?」 「そんなことないわ、だって……」  動かない、しゃべれない、「私自身」には誰も興味がないんだから仕方がないと、足と腕を見てぼんやりと思う。動かしていなかったせいで、すっかりとやせ細って、棒切れみたいにみっともないものになってしまっていた。  私は、アイドルだったのだ。十年前までは。  起きたら十年経っていたと教えられた。信じられないとか、どっきりとか思える程、私はお気楽な性格でもなければ、芸能界に染まりきってもいない。  たった数日寝ていただけで、足はやせ細りもしなければ、動かそうとしてもまともに動かないほど筋肉がなくなることなんてならない。  ちょうど廊下を通り過ぎたとき、待合スペースには共用テレビがあった。テレビには私が見覚えのないアイドルの女の子が、笑顔でしゃべっているのが見えた。  きっと私がテレビに出ていた時の方が上手くしゃべられる。可愛いだけで生き残れる世界ではないのだから、彼女はもってあと一年だろうか、と分析する。  芸能界は使えなくなった人を親切に置いておけるような人道溢れる世界ではない。きっと新陳代謝を繰り返して、新しい歌手が流行歌を歌い、新しい芸人が芸を繰り広げ、新しいアイドルがテレビでアイドルらしい笑顔を浮かべているところだろう。  突然起きても、マスコミはやってきてスクープにしてくれない。  ああ、私はこれだけの力しかなかったのだ。  もっと泣いたりやけを起こしたりしてもいいはずなのに、残念ながらそんな体力すら削がれていた。今の私は、早くベッドに横になりたい、早く眠りたいしかなかった。  ……寝て起きて、また十年経ったらどうしよう。  そうは思っても、今は眠りたい以外に、やりたいことが見つからなかった。 ****  肉体性過眠症候群。  ロマンティックな名前として、眠り姫症候群と呼ばれる症状が私の病名だと、医者が教えてくれた。  過度なストレスに陥っている人が、長時間睡眠を取れていない結果、身体が過度の疲労にアラームを鳴らし、強制的に眠らせてしまうもので、ここ数年増えているという。特徴としては、長期睡眠の間、筋肉こそは動かしていないから痩せてしまうけれど、体内の分泌物が新陳代謝を通常より促し、現状を維持しようとするというものだ。  つまり、十年間も私は眠っていたにもかかわらず、倒れる直前と全く同じ姿形を維持しているのは、それが原因らしい。 「この症状の治療法が未だにわからないんですよ。このまま眠り続けた結果、家族も皆先に亡くなられてしまって、治療を打ち切られてしまった例もありますし、一ヶ月経ったら健康そのもので起きた例も存在します。ですから、あなたがなにも失ってしまう前に起きられたというのは、奇跡としか言えないのですよ」  そう医者に言われたとき、私はどうして今、筋肉がないのだろうと思った。目の前の医者を今すぐ殴り飛ばしてしまいたい。殴ることは叶わなくても、そこにある分厚い医学書を投げつける権利位は私は主張してもいいと思う。  なにがなにも失っていないだ。  私が起きたというのに、誰も見舞いに来ないじゃないか。私の数少ない友達だって、十年も経った今じゃどうなってるのかわからないし、そもそも家族も私を迎えに来ないし。  十年っていうのは、十年前に生まれたまだまともにしゃべれない赤ん坊が、小学校に通って元気に友達と校庭駆け回ってる時間だぞ。それを私はドブに捨てたんだ。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな。  怒っても、顔だけはただ笑顔を浮かべていた。職業病という奴だ。自分の感情を素直に出すことなんてできない。ただ、対人受けしやすい表情をつくるというのには私は慣れていた。 「そうですか、わかりました」  なにもわかっていないというのに、それだけが喉から出た。  発声練習がしたい。今の声はしわがれ過ぎていて、これでしゃべられても私も含めて不快なだけだ。  車椅子を自分で回す体力もないのに、せめて個室で大声を出してもいいか、看護師さんに聞かないといけないかもしれない。 「今は混乱しているかもしれませんが、ゆっくり慣れていきましょう。大丈夫です。世界はそんなにあなたに冷たくはありません」  最後の言葉だけは、ひどく耳に残った。それが私が怒っているせいなのか、やけに胸にすとんと入った言葉だからかはわからない。 ****  家族は相変わらず来なかった。  最初私をアイドルにしたのだって、姉が勝手に私の履歴書を書いて送ったのが原因だ。男子アイドルにはまっていた姉は、少女マンガよろしく妹を応援に行った結果男子アイドルとお近付きになりたいなんていう、よこしまなことを考えた末だった。最初はそりゃ、カメラやスポットライトの前に立って、たくさんキャーキャー言われるという世界には興味はあった。でもいざアイドルになってみたら、寝る暇なんてものはなかった。  いつも笑顔でいましょう。  アイドルはトイレなんてしません。  一生懸命話しましょう、時代はバラドルです。  歌が上手くてなんぼです、当然シングルで歌は歌います。  移動時間だけが睡眠時間で、残りは皆仕事を入れられるというのは普通だった。アイドルは人間ではないから、労働基準法なんてものはないらしい。  私は正直、自分の月給がどれだけだったのかはさっぱり知らない。ただ気付けばアイドルの追っかけをやめていた姉は、「おかげで式を挙げられました」と、家に帰ってない間にできた彼氏と式を挙げていた。今頃は主婦業に忙しいだろうから、きっと私のところになんか来る訳がない。  最初こそはお母さんもお父さんも「シングル聞いたよ、いい曲だね」「バラエティーで頑張ってね」と連絡をまめにくれたのに、私が貯金で家を買った前後から連絡を全くくれなくなった。私は家代を出せばそれで用済みだったんだろうか、と未だに連絡の取れないふたりを恨めしく思った。  私が入院室からちっとも出ないせいで、見兼ねた看護師さんが、ときどき外に連れ出してくれた。  そうはいっても、せいぜい屋上に行ったり、中庭を見たりと、病院の敷地から出ることはない。外出許可は、家族同伴でなければ無理だとは、看護師さんの謝罪の言葉だった。  その日看護師さんに連れて来てもらった屋上では、小児科に入院している子供達が鬼ごっこをして遊んでいた。十年前も十年経った今も、子供が元気に走っているというところは変わらないらしい。 「寒くない?」  相変わらず看護師さんだけは、私に甲斐甲斐しく付き合ってくれていた。  仕事とはいえど可哀想。こんな性格がくそみそみたいな、おべっかも使えない中古品の面倒を見る羽目になって。燃えるゴミの方が、まだ燃料になるだけ価値があるというものだ。私が燃えても葬儀場周りの経済が回るだけだというのに。 「平気です。いい天気ですね」 「そう。ごめんね、今は小児科の子たちが外で遊べる時間なの。ちょっとうるさいかもしれないけど」 「いえ、大丈夫です。子供は元気が一番ですよ」 「老成してるね」 「私、本当なら二十八ですから」  自分で言っていてつらい。今はどう見ても女子高生、上に見ても女子大生位なのに、こうやって子供を見るというのは。普通に倒れなかったら、今走り回っている年頃の子供がいてもおかしくないのだ。  私が遠目に見ていると、看護師さんは音を外して鼻歌を歌った。 「少年少女よ大志を抱け  スタートラインはここじゃない  もっと先にあるその場所まで  走れ走れまだはじまっちゃいない」  私は、思わず目を見開いた。  それ……。  看護師さんはふっと私と視線を合わせると、ゆったりと微笑んだ。この人は嘘の笑いのプロだと思うけれど、でも今の状況で嘘笑いなんて、するだろうか。  私みたいな中古におべんちゃらしても、何もいいことなんてないのに。 「看護学校の受験のとき、この歌聞いて励ましたのよ」 「ああ……」  よくよく見たら、看護師さんは二十代後半みたいだ。本当だったら私と同い年位だ。だったら私がテレビで歌っていた頃を知っていてもおかしくないのだ。  看護師さんは笑った。 「でも、今私のこと知ってるの、看護師さんだけじゃ……」 「そんなことないわ。マスコミは他のアイドル追いかけてる方が多いかもしれないけど、病院の人達は皆あなたが起きるのを待っていたんだから」  看護師さんは続ける。 「今はあなたは歌歌えないし、踊るにもリハビリしてからじゃないと駄目でしょうけど。でも、いつかはあなたに凱旋記念ライブ、病院内で開いちゃうんだから」 「どうしてそこまでするんですか……お金とか、うちからもらってます?」  いい人だと思うのに。おべんちゃらで中古品なんて褒める必要ないもの。  でも底意地の悪い私がこぼす言葉は、本当に意地の悪い言葉ばかりだ。 「入院費はともかく、ライブのお金なんてもらってないわよ。でも、院長先生、あなたのファンなんだから。他の人のことは気にしないで。今は目の前のファンを見てちょうだいな」  それは看護師さんの言った嘘なのか、それとも本当のことなのかはわからないけれど。  私は発声練習をしようとしたけれど、声がまだかすれててしぼんだ風船のようだ。まだ声は足りない。寝過ぎて腹筋だって動かないんだ。 「十年経っただけで消えてしまうことはそのまま忘れちゃいなさい。十年経っても待ってた人のことだけ覚えてればいいんだから」  思えば。私はいやいやながらもアイドルをするようになった際、最初のお客さんはどんな人だったっけ。  下手っくそな歌。ダンスだって最悪だった。それでも、声をかけてくれた人が確かにいたと思う。  今の看護師さんは、その人に重なった。  その人、十年経った今じゃ、サラリーマンとして働いて、アイドルよりももっと別にお金かけててもおかしくないのにね。 「そうする。ねえ、筋肉頑張って付けて、リハビリ完了したら、私って退院しないと駄目でしょうか?」 「そうねえ……」 「ライブ会場って、今どこで借りれます?」 「えっ?」  現金なものだ。  ひとりファンを見つけたら、もう次のファンを獲得する方法考えるなんて。  歌いたい。  なにも考えずに、ただ。  スポットライトにいつかは背を向けるときが来るかもしれないけれど、今はそのときじゃない。
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