ベイクドチョコ味のビールを待つ間

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ベイクドチョコ味のビールを待つ間

「早い話、私とキスがしたいわけ?」  金澤弘美(かなざわひろみ)はいたずらっぽく向かいに座る男に訊いた。  いや、いたずらっぽく、と表現するのはあまりに近視眼的で洞察力に欠ける。金澤弘美は表面的にそう見せていただけだ。 「回りくどかったかな?」とその男、田辺和雄(たなべかずお)はあっけらかんと返事をする。表面的にそう見せていた。  回りくどいに決まってるじゃない、とやはり弘美は苛立っている。今だって私が質問してるのに質問で返してるじゃない。YESかNOかで済む答えを、この男は余裕ぶって引き延ばすの。だからいつまでも核心にたどり着かず話が長くなるのよ。いつもそう。声に出さずに弘美は彼に意見する。        ***  夜になるとぐっと下がりはするが、日中の暖かさというか暑さといってもいい高温の記憶が体内に残る。多くの人々にとって、ビールが美味しい季節のアディショナルタイムは長めに取られている。それはビールを出すお店の都合的解釈だけではなく、飲む側も含め双方にとって喜ばしい現象だ。  ウェイターが窓際の席にやってきて、親子ほど歳の離れた二人のテーブルに、店名が活版印刷された紙製コースターを敷きビールを置く。長身でいて、それに似合うスマートな顔立ちのパリッとした二十代後半と(おぼ)しきウェイター。「チェコのピルスナーです」と、さりげなく呪文のように唱える所作が、見習いの魔法使いに見えた。 「チェコのピルスナー」  弘美は見習い魔法使いの呪文を真似て唱えてみる。グラスの中の黄金色が、一段と輝きを増したような気がした。グラスの外側では無数の水滴が魚眼レンズとなって、水の屈折率で歪んだ円形の複雑なきらめきを演出している。魔法にかかりキラキラひかるピルスナーの容姿に弘美はうっとりする。 「クラフトビールを飲み慣れない人とかには、私はまずこのビールを勧めるんだ」  そう言って和雄は慣れた手つきで此れ見よがしにグラスを傾ける。日本のビールに近いから、と付け加えながら。言葉がその場に浸透し定着するのを確認でもしているような言い方だった。  弘美は「ちっ」と思う。「面白くない人」。  せっかく自分の選択肢にはないクラフトビール専門のバーに来れたというのに遊び心のない人だ、と。わざわざ日本のビールに近いものを飲ませなくてもいいじゃない。目の前の男に最初のビールの注文を任せたことを後悔していた。  歳の差こそあれ弘美は、わりと普段から和雄に対して思ったことを口にするが、彼に気に入られたいという思いも少しはある。あからさまには見せないが常にそれを持ち合わせていた。 「うん、飲みやすいね」と弘美は愛想笑いをして特別に味の感想も言えず、言い訳する代わりにグラスを眺めた。  細くて背が高く、底から飲み口にかけて直線的にほんの少しだけ広がっている形状のグラスを片手に、控えめな応援をするときに最適なメガホンはこんな形かな、と考える。「でも、控えめな応援をするときってどんなとき?」。  ぴーん、と張り詰めた試合会場。選手の緊張が観客である自分にも伝わってくる。満員御礼の観客はみな口を噤んでただ息を呑む。バスケットボールコートなら六面は取れそうなバカでかい体育館のほぼ中央にキングサイズのベッドが一つ。真っ白なボックスシーツの上で裸の男と女がベッドの上でするであろう、そういうことをしている。  女はひどく興奮している。 「もう少しよ」。  女の漏らす吐息が静寂を保ち続ける館内に、神聖に響き渡る。 「そう、そこよ」。  女の激しい息遣いは止まることはなさそうだがその反面、腰を振り続けていた男は疲れからか動きがスローダウンしている。 「だめ、やめちゃだめ!」と弘美は思う。  そんなとき「だめ、やめちゃだめ」とこのメガホンを使って控えめな応援をするのだ。周りに聞かれたら恥ずかしいその言葉を控えめな音量で。それでいて選手の耳に(特に男の耳に)届くように、細く長いこのメガホンはそういう時に使うのだと思う。「ふふん」、自分でも笑ってしまう。へんな妄想。  思い出し笑いをしているような弘美を見て、和雄は自分のことを笑われている気分になる。そう、笑われて当然だと、自分がこれから彼女に言おうとしていることを自覚している。  本題に入りたいがあまりに照れくさくて意図的に物語を語るようにその話を切り出すことにした。物語に準えるのにぴったりな人物が登場するからでもあった。 「その日私は出会ったんだ。マッチ売りの少女に」  そう、和雄は物語を語り始めた。話の導入としてはこれでいい、と自己評価しながら。 「季節外れのマッチ売りの少女だった。だってそうだろ?マッチ売りの少女といったら、雪の降る街で道行く人にマッチを売ってるシーンが浮かぶ。だけど今は夏の暑さこそ少し忘れかけてきているものの九月の中旬。マッチ売りの少女には似ても似つかない季節じゃないか」  弘美は黙って聞いていた。何がなんだかわからないでいた。和雄からおよそ一時間前に電話があり、相談があるからと言われ何事かと駆けつけたのだ。和雄からの連絡は仕事絡みのものも少なくない。寧ろその方が多いくらいだ。和雄は日頃、自身の特殊なキャリアから講演会やワークショップの講師などの依頼を受ける。そういった催事においてアシスタント役に弘美をいつも指名していた。和雄は何かしらの理由で弘美のことを気に入っていたのだ。弘美の方も何かしらの理由で和雄からの指名にいつも応じていた。金銭的な理由も大いにあったかもしれない。割りがいいバイトなのだ。 「マッチ売りの少女って何よ?」と弘美は思いながら、今回のバイトはどんなかしらと和雄の話の前置き部分を聞いていた。 「それは少女ですらなかった。立派に成人した、酸いも甘いもきっちりと噛み分けることのできそうな、それなりの年齢の女性だった」  世界の小規模なビール醸造所から仕入れる、ここクラフトビール専門のビアバーは少しずつ混み合ってきている。どこの席の客もビールを片手にわいわいと賑やかな会話を弾ませている。そんな店内で和雄と弘美の席だけは塾の個別ブースのようだった。まだ年若い教え子に教師が人生訓を与えているようにも見えた。 「『マッチ買ってください』とその少女、いや、その女性が言ったんだ。今はあまりお目にかかれない紙の小箱に入ったマッチだった。私はたばこを吸わないが、何故だかそのマッチを買ってもいいと思ったんだ。何故だろう?」  和雄の顔を真正面に捉えながら、「どうせその女に興味があったんでしょ」と弘美は笑う。相手に悟られないように。 「それで私は財布を出しマッチの金額を聞いた。小銭が入っているチャックを開けながらね。でも、その女性は『二万』と言ったんだ」  弘美は「売春婦?」と思った。二万が高いのか安いのか相場は知らないけれど、「高いわね」と相槌を打った。 「高いだろ?高いよな。だから私は高いね、と言ったんだ。するとその女性は矢継ぎ早に『特別なマッチなの』と答えたんだよ。人差し指をくちびるにあてて」  和雄はまだ一口しか口をつけていなかったビールを、一気に半分ほど飲んだ。その飲んだ分量ほどに話はまだ長くなりそうだな、と弘美は予感していた。 「それでこの店。ちょうどこの席。その女性を連れてここに来たんだ。説明すると長くなる、とそう言ったから、話を聞こうと私がこの店に誘った」  弘美はこの話は、やがて男女のいやらしい展開にしかならないだろうと聞いていたが、弘美の知る限り田辺和雄という男は、女性に対して積極的なイメージはなかったので、それには少し違和感があった。  和雄はグラスに残る半分のビールを飲みほして、次のビールのオーダーはせずにここからが本題、という雰囲気を出してより詳しく物語を語り出した。  ** マッチ売りの女性 **  マッチ売りの女性はビールを飲んだ。少女ではないし、どうみても未成年ではない。ビールを飲むことは違法でもなければ不思議でもない女性だ。 「ビールは好きよ」とマッチ売りの女性は言った。「どんな飲み物よりも」と。  彼女はドイツのスタウトを選んだ。それは彼女にとても似合っていた。スタウトの色に似た、全体的に黒っぽい色でコーディネートされた彼女の服装は、彼女の性格をも表しているようにも見えた。  二人でしばらくビールを楽しんだ。お互いに二杯目のビールを飲み干して、それぞれ三杯目をオーダーしてから、「さて、と」といった感じで『二万円の特別なマッチ』の話をしようじゃないか、という流れになった。 「では、説明をしようと思いますが、その前に」  とマッチ売りの女性は言った。 「二万円はお支払いくださいね。すでに私はこうしてあなたに占有されて拘束されているのですから。私は雇われのマッチ売りです。与えられた業務をこなしているに過ぎません。それなりに一日の成果を会社に持って帰らなくてはいけません。そうでないと、無能だとか、サボってたのではないかとか、あれこれ言われるんです。独立開業したマッチ売りならば無料でも説明するかもしれませんが」  私は「雇われのマッチ売り」という言葉に引っかかった。そこで率直に「雇われてるんだ?」と訊いた。 「大手ではありませんが業界では中堅の、わりと名が通る会社です」  マッチ売りの女性はそう答えると、いくつかのマッチ箱を入れた手提げの丸い籐の籠から名刺入れを取り出してその一枚を渡してくれた。「申し遅れましたがわたくし、マッチ売りの少女をやっております」と改めて名前を名乗った。  その名刺にはマッチ売りの女性が言うところの業界では中堅の会社名があり、然るべき試験を合格した国家資格の『マッチ売りの少女』であると記されていた。 「あまり世間には知られていない、認知度の極めて低い職業ですし、『少女』でもないんですけどね」  そう言ってマッチ売りの女性ははにかんだ。 「ちなみにこの中のマッチですけど」  マッチ売りの女性はマッチ箱を片手に持ち、それを振りながら「ほとんどは普通のマッチです」と言った。マッチ箱の中を見せ指でかちゃかちゃとマッチ棒をかき分けて「わかりにくいのですが、アタマが赤いのが普通のマッチで、若干薄くてオレンジ色っぽいのが特別なマッチです。ちなみにそのアタマのことは『頭薬』というんですけどね」  マッチ売りの女性は人差し指と中指、二本の指を立てた。 「頭薬の部分がオレンジ色の特別なマッチは二本。つまり一本一万円。普通のマッチはサービスでお付けしております。箱の中がスカスカだと見栄えが悪いもので」 「で、その特別なマッチというのは?」  黙って聞いていたが私は待ちきれなくなって質問した。  マッチ売りの女性は(はや)る私をかわすように「その前に」と、ついさっきも聞いた言葉を繰り返した。 「あ、わかっております。その金額はお支払い致します」  私は彼女の言葉に遅れを取らぬように、彼女の言葉の語尾に続けてそう言った。「最初からそのつもりです」といった意味を込めていた。  するとマッチ売りの女性は「いやいや、そうではなくて」と、またも逸る私をかわすように言った。 「その前に、三杯目のビールを飲みましょうよ」  話し込む二人の邪魔にならぬよう、少し前にウェイターがさりげなく置いていったビールを手のひらで示した。  二人はしばらく黙って、その三杯目のビールを飲んだ。私は目の前でグラスを傾ける女性を眺めながら、この話はもう終わってしまったのではないか、と疑った。「それならそれでいいじゃないか」、たとえそうだとしても黙って二万円を支払い、マッチを一つ受け取って帰ろうと思った。日常で、マッチで火を着けるシーンなど思いつかなかったのだけれど。       *** 「二万も出して、そのマッチを買ったの」  弘美が物語の途中で割り込んできた。和雄は物語で語っていた実際のマッチ箱をその手から離しテーブルの中央に置いた。 「結果的には」  和雄は買った事を自白する。妻に無駄遣いを問い詰められているような気分にもなる。 「でも普通のマッチじゃないんだ。この中の、二本は」  妻にするように和雄は言い訳した。テーブルに置いたままでマッチ箱を引き出して、指で色の違うマッチ棒をなんとなく探す。そして見つける。 「心に火を着けるマッチらしいんだ」  弘美に圧倒されながら会話していた和雄の口調が、強気で闊達さが感じられるほどに変化した。 「その炎は、愛や恋などに作用するらしい。そういう心を燃やすんだ」 「ちょっと、それ本気で」と弘美が言いかけて「うわっ」と声を漏らした。背が高く細長いグラスは見た目はおしゃれで素敵だが致命的な短所があった。  それと同時に二人は店内に流れていた音楽に気づく。軽く二十年は昔に流行った歌をピアノで奏でている。ニ小節ほどして、先ほどからのウェイターがおしぼりをいくつか手にしてやってきた。彼はテーブルに広がったビールの湖を魔法のように一瞬で消した。和雄は「すみません」と謝り、弘美は「ありがとうございます」とすまなそうに言った。 「このマッチを、この中の特別なマッチを、唇に塗るというかあてるんだ」  ウェイターが去ると和雄は、ピアノが奏でる音楽を目で追うように天井付近をぼんやりと眺めた後にそう言った。 「君はマッチ箱の横面のこするところに唇をあてるだけでいい」  和雄はマッチ売りの女性から受けた取り扱い説明をそのまま弘美に話した。唇をあてる部分は『側薬』というんだと受け売りした。 「早い話、わたしとキスがしたいわけ?」 「回りくどかったかな?」  (リフレイン) 「でもこれは如何わしい媚薬みたいなものじゃない」  和雄は話を続けるにはアルコールの力を借りたいと思ったが、目の前のグラスはすでに下げられていた。さっきウェイターに注文するべきだったと後悔する。 「相手を好きだという気持ちがないと効用は得られない。誰でもいいというものじゃないらしい。興味深いと思わないか?」 「一つ聞いていいかしら?」と弘美は言って、「まるで田辺さんみたい」と質問に質問で返している自分に気づく。 「これって、体良(ていよ)く告白してない?」  教え子と教師のような関係が逆転していた。優位な立場で語っていたはずの和雄は、自分がいつの間にか女性専用車両で椅子取りゲームをさせられていることに気づく。自分は勝てるはずのない試合会場で、勝てるはずのないルールでゲームをしていたのだと。  賑わうビアバーの店内には相変わらずピアノが奏でるかつての流行歌が流れている。そこに歌詞はないが、その歌詞は和雄に、恋をしているならキスをしよう、と注意を与えている。店内のBGMは審判の役割で、その審判に和雄は注意どころか、すでにイエローカードをもらったような気にさえなっていた。  立場が逆転したことを面白がっている弘美は、何かを言おうとする和雄を弄ぶように「その前に」と口角を上げる仕草だけで笑ってみせた。 「次のビールをオーダーしましょう」  弘美は遊び心を持って、メニュー表から興味をくすぐられるビールの名前を魔法の呪文のようにウェイターに告げた。和雄は「同じものを」と敗北宣言のように続けた。  やがて二人の前に見習いの魔法使いが、二人が見たこともない色と香りと味のビールを運んでくる。  マッチ売りの女性から買ったマッチは、先ほど弘美が倒したビールがかかってしまっていて、おそらく使い物にならないだろう。  和雄は立場が逆転し、到底勝ち目のないこの試合展開で、ここから勝敗をひっくり返すにはかなりの大技が必要だと覚悟した。もうアルコールの力は借りない。ビールが運ばれてくる前に。  直球ストレートなやつを。  回りくどくないやつを。  その大技が決まったなら、ここではできないが、別の場所で。  審判に二枚目のイエローカードを出され退場処分になるまえに。  弘美は「あとは黙って待つ」と心に決めて、次のビールを待っていた。  今年の秋冬のトレンド色、ベイクドカラーの甘いチョコレート味の、それを。  
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