いいわけ

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 俺と吉野沙智は、恋愛関係にあった。  しかし、ある事をきっかけに、沙智と距離を置かなくてはならなくなった。  俺は彼女を裏切った。単刀直入にいうと、浮気をしたんだ。  数ヶ月前。  その相手である今野美咲と出会ったのは、本当に偶然だった。 「この場所に行きたいんですけど、どっちに行けばいいですか?」  そう言って美咲が、この最寄駅の前でスマホを持ちながら声を掛けてきたのだ。  俺は一目彼女の容姿を見て、気持ちが舞い上がらせていた。彼女の姿は、俺の好みそのものだったのだ。  大きな目に、綺麗で艶のある髪。加えて、体のラインが細くて、胸もそこそこ大きい。さらに、いい匂いもする。そんな女性に気分が高まらない男がいるのかと、言いたくなるほどの容姿と人柄を兼ね備えていた。  そんな俺に構うことなく、美咲はスマホの画面を見せるために、密着するほど近づいてくる。  目的の場所は、この辺りでは有名な大きな大学病院だった。 「入院する祖母のお見舞いに行きたくて。でも、地図を見るのが苦手なんです」  彼女は困った表情を見せる。その表情を見て、手を差し伸べない訳がなかった。 「よかったら案内しようか?」  こちらの提案に、彼女は笑顔で頷いた。  喜んでくれた。  俺の気持ちは高まったまま。彼女の隣を歩きながら高揚していたのは、間違いのない事実だ。  ずっと見せてくる愛敬の良い笑顔は、俺の気持ちを心地良くさせていた。  俺は、そんな美咲との会話が途切れないように、思い付いた事をとにかく話していいった。  結果、病院までの道中では話に花が咲いた。素直に嬉しかった。  美咲は21歳で、一人暮らしをしながら都内の大学に通っている。テニスサークルに入って、学生生活を満喫しているらしい。  自分の事を話す彼女は、楽しそうな表情を見せてくれた。  そんな笑顔に、心はさらに美咲に傾いていく。  そんな彼女の姿を見ていると、微笑ましく思えた。自分の顔が綻ぶのも無理はなかったと思っている。 「お仕事は何をされているんですか?」  今度は彼女が質問をしてきた。俺は素直に、家電量販店に勤めていると答えた。 「そうなんですね。お仕事楽しいですか?」 「まあ、好きで選んだ仕事だからね」 「そっか。やっぱり、給料よりも気持ちの方を優先した方がいいですよね?」  急なまともな質問に、足が止まった。聞くと、彼女はペットショップに勤めたいと思っているようだ。 「大学に通ってるのに、どうしてペットショップなの?」 「今、そこでアルバイトをしているんです。大変ですけど、楽しいんですよね。だから、迷ってて」  その答えに合点がいった。そして、これなら俺にも答えれると、内心拳を突き上げた。いい格好が見せられるかもしれないと。  ペットショップで沙智が働いているので、仕事の話は聞いたことがあった。    沙智が言うには、命を預かりながら仕事をする事は、相当な負担があるようだ。ただ商品が並んでいるわけではない。生き物を預かりながら店を見ていかなくてはいけない事に、かなり神経を使うと。  それに、店によるだろうが、職場の人間関係も相当複雑なようだ。何度か店に顔を出した時は、優しい彼氏だと聞こえるように煽てられた事があったが、実際はそんな場所ではないと。裏では、そんな表情は全くない。別の人間が憑依していたと思ってしまうくらいに、人が変わるものだと。  だけど、沙智は辞めずに続けている。それは、仕事にやりがいを感じるからだと言っていた。その話をする沙智の表情は、とても清々しかった事が忘れられない。  俺は、それなりの答えができると思った。 「やりたい事をやる方がいいよ。お金も大事だけど、自分の気持ちを優先した方が大切だと思うけどな」  そう言った瞬間、美咲の表情がパッと明るくなった。  俺は続けた。 「それに、君の中では、もう答えは決まってるんでしょ?」  美咲は笑って、頷いた。 「そうですよね。ありがとうございます。なんかすっきりした気がします。もうすぐ就活が始まるので、参考にします」  清々しくなった美咲の表情を見ていると、嬉しく思えた。本当に気持ちが晴れたような、そんな笑顔だった。  病院の前までやって来ると、互いに手を振って別れた。  もう少し話していたかったのが本音だ。そんな気持ちが、短いこの時間で芽生えたことにも、気が付いていた。  しかし、初対面の若い相手に、連絡先を聞く勇気を持ち合わせてはいなかった。
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