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「この馬鹿」
沙智は俺から手を離した。
「あなたはね、利用されたのよ。私を陥れるためにね」
「利用? 何のために?」
頭に過ぎったのは、美咲と過ごした時間だった。あれが本当に、嘘だったのか?
「あの子はね、やろうと思えばあれくらい簡単にできるような女なの。いざとなれば、それくらい出来るのよ。私の言いたいことがわかるでしょ?」
そう言って沙智はまた小さく息を吐いた。
そして、何かを考えるかのように口を閉ざして、じっと黙った。
しかし、それは俺も同じだった。まるで信じられなかった。美咲と過ごした時間が、まるで幻想を見ていたかのように思えて仕方がなかった。
記憶を掘り起こしていると、嗚咽が聞こえてきた。さっきまでの姿がまるで嘘だったかのように、沙智は涙を溢していた。
「大丈夫か?」
沙智は小さく頷いた。袖で口元を拭った。
その間、じっと沙智の事をただ見ている事しかできなかった。彼女には彼女にしか知らない世界を見ている。そんな気がした。
しばらくすると落ち着きを取り戻したのか、沙智はゆっくりとした口調で話始めた。
「私はね、店で随分と嫌われていたみたい。あの子のためだと思って接していた指導が、どうやら気に食わなかったみたいね。それに気がついた時は、もう遅かった。あの子は、私に歯向かうようになったの。機転が利かない。要領が悪い。これじゃあ、動物達が可愛そう。そんな事を言われ続けるようになったわ」
そうだったのか。悩みを聞いたことはあったが、ここまでエスカレートしているとは、考えもしなかった。
「腹が立ったわよ。それに悔しかった。だけど、そんな事で挫けたくなかった。好きな仕事をそんな事で辞めたくなかった。どれもあの子の為だったし、動物達のためでもあったから。でも、それは私の一方通行だったのよ」
「君は悪くないと思うよ」
自分なりの精一杯の言葉だった。
しかし、そんな言葉を振り払い、沙智は続けた。
「ふざけた事を言わないで。あんたが私の立場をさらに悪くしたのよ。あの日からは、店で笑いものになったわ。こんな単純で馬鹿な男と付き合っているって、言われる始末よ。そんな奴に偉そうにされたくないって。お陰で、大恥をかいたわ」
こんな時こそ何かを言わなければいけないのだろうが、何も言い返せなかった。ただ、黙ることしかできなかった。
「信用していた私が馬鹿だった。あんたが自慢の恋人だったと思っていた自分が情けなかったわ。だけど、それ以上に馬鹿なのはあんたよ。本当に何であんなのに騙されるわけ?」
本当に馬鹿だった。それしか言いようがない。
「いい遊び道具にされたものよ。私も、それにあんたも」
沙智は大きく息を吐き、続けた。
「あと、勘違いしないでね。あなたの事を許した訳じゃないから。たまたまあなたを見かけたから話しかけただけ。あんたの後ろ姿を見かけただけで、すごく苛立って我慢できなかっただけだから」
「それと」
彼女の勢いが増していった。
「別にあんたは真実を知らなくてもいいのよ。だけど、話してしまったのは出来心よ。本当に勘違いしないで」
沙智のこんな姿を見ていると、心に残っていた蟠りが、動き出した。俺は、沙智に聞いた。
「だったら、やり直してくれる事はできなよな?」
咄嗟に発していた。自分でも、こんな立場で何を言っているんだと思ったが。
当然、返事は見事に期待を裏切ったものだった。
「当たり前でしょ。よくそんな事が言えたもんね。もうあんたなんかに、要がある訳ないでしょ。二度と私の前に現れないで」
そう言い残して、沙智は腕を強く振って、去って行った。
俺は、そんな沙智の背中を、ただ見ている事しかできなかった。
(了)
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