紫陽花葬

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紫陽花葬

 演劇が好きだった。  あなたと同じように、大学に進学して演劇サークルに入った。それからは朝から晩まで演劇漬け。それが幸福だったのか、不幸なのかわからないけど。でも楽しかった。  最初は役者をやっていたのだけれども、駄目だった。身長も低いし、器量だって悪かったから。それでも演劇が好きで、辞めたくなくて。大学を卒業してもずるずると演劇を続けていたの。サークルの先輩が立ち上げた小さな劇団、『劇団ボルジア』で。最初の頃は三枚目とかの役を演じていたんだけれど。百面相をしたり大声で騒いだり。でも駄目だった。  作品の感想を書いてもらう観劇アンケートってあるでしょう。ある日、あの紙に書かれたの。天野という役者のボケは全く面白くないって。顔に白粉を塗ったり、跳んだり跳ねたりしても可哀そうなだけだって。  少しでも舞台にいたかった。その為ならどんなこともやるつもりだった。それは私の誇りだったのだけれど、お客さんから見れば可哀そうなことだったのね。もし私が男だったら、なんて思ったりもした。  とにかくそこで私は舞台に立つのを辞めた。可哀そうな目で見られたくなかったから。でも演劇から離れたくなかった。だから裏方に回って、舞台道具を作ることにしたの。実家が家具屋で、父の作業する様子をよく見て真似していたから、手先は器用な方だった。だから舞台屋のコツはすぐに掴んで、自分で色々作るようになったの。小さいものから、段々大がかりなものまで。  そう、この部屋にある舞台道具は全部、私が作ったもの。壁一面を空色に塗ったエレベーターの籠、中央部を人の形にくり抜いた書棚、メリーゴーランドの真っ白な馬、金魚に囲まれた安楽椅子。そして、鉄の小舟。  あなた、あの小舟を見て私のことを知ったのよね。この間の山城さんの展示会で。あの人、今更『劇団ボルジア』の展示会をしたいなんて言って、随分と懐古的よね。どうせ来る人もいないだろうに。  ――ああ、ごめんなさい。あなたは来てくれたもの。そして、こうしてわざわざ私に会いにまで来てくれた。嬉しいわ。二年前くらいから足を悪くしてしまって、それ以来すっかり出不精になっちゃっていたから。こうして誰かと話せるのが、とても嬉しい。 ※※※※  あなた、今日は随分と庭の紫陽花を見ているのね。  昔、友人から苗木をもらって、それを育てたらあんな風に、庭一杯になってしまって。近くの子供達にはここ、『紫陽花屋敷』と言われているらしいわ。  その友人は幼稚園の頃、紫陽花の妖精役を演じたのが最初の演劇経験だったの。だから紫陽花が好きだって言っていて。単純で、可笑しいでしょう。  ――そうだ、今日はその友人の話をしてもいいかしら。大学で出会って、演劇を一緒にやった彼、桧垣君の話。私が多分、好きだった男の人の話。こんなお婆さんが恋の話なんて、変だと思うでしょうけど。  私が恋とか愛というのを考え始めたのは演劇を始めてから。ほら、公演期間前の役者練習って、ずっと顔を突き合わせて、男女ともに同じ目標に取り組むわけでしょう。そうするとすぐに惚れた、腫れただのがあって。実際に、妊娠して役者を降りた子もいた。  そして月並みだけど私も恋をした。相手は同じ役者で一つ上の先輩。舞台映えのする背の高さがあるし、顔も整ってはいたのだけれど、どこか陰気臭い雰囲気があって。だから、演じるのは主役より脇役が多かった。それが桧垣君だった。  彼はね、私のことをミイちゃんと呼んでいたわ。天野瑠衣美の最後の文字をとって、ミイちゃん。その頃の私のあだ名はルイちゃんが多くて。すると彼、『瑠衣美のルイばかり呼ばれていて、最後のミが可哀そうだから、俺はミイちゃんって呼ぶことにする』って。変わった人だった。  舞台練習の時も彼は変わっていて、演出や台詞に意見ばかり言っていた、他の役者よりずっと多く。『この台詞はこの場面に合っていない。この役の感情の動きがわからない』って。でもどのお芝居でも作演は彼のことを重宝していた。その意見は筋が通っていたから。目立ちたいわけでも、楽をしたいわけでもなく、ただ彼は自分の役割に納得したかったの。それは舞台の上でも、外でも変わらなかった。  そんな彼のことを、その猫背がちな姿を私はずっと見ていた。演劇サークルで出会って、卒業後も『劇団ボルジア』で一緒に公演を打って、六年間と少し。一緒に夜通しで騒いだこともあったし、泣いたことだってあった。でもその間、彼と付き合うことはなかった。  自惚れかもしれないけど、付き合ってと言えばきっと付き合ってくれたと思う、彼。でもその瞬間に何かが変わってしまうような気がして、それが怖かった。だから、彼が立ち上げた劇団に誘ってもらって、入ることができただけで良かった。そして、舞台の上に立つことを辞めた後も、彼の為に舞台道具を作り続けた。  あの鉄の小舟もそんな作品の一つだった。 ※※※※  あの小舟、正式には『カロンの方舟』という名前なの。『火星の聖者』というお芝居の中で、実際に舞台上で使われたもの。もう四十年近く前になるのかしら。 『火星の聖者』という物語はね、『劇団ボルジア』で創作した、ノアの方舟のオマージュなの。宇宙開拓が少し進んでいて、火星のテラフォーミングをしつつある、少し未来の話。  物語は、一隻の宇宙船が火星に不時着するところから始まる。彼らの墜落した場所はテラフォーミングの影響で海に覆われた島になっているけど、幸い茸のような食用植物も生えている。そんな中で一か月後に来る救援を待つことになるのだけど、ある日、クルーの一人、カロンという男が夢を見るの。それは彼らがいる島を大嵐が襲うというもの。  鮮明な夢を何日も続けて見た彼はそれを神の啓示と信じるようになり、仲間を説得しようとする。でも仲間はそれを信じなくて、だから彼は不時着して壊れた船舶の残骸を使って一隻の方舟を作る。唯一彼の話を信じた一人の女性と一緒に脱出しようとするけど、他の仲間に止められてしまう。それでも彼は自らの信じるものを貫き、一人で方舟に乗る。  そして、どうなったと思う。  ――どうにもならなかったの。彼が漕ぎ出して遥かな海を進むところで物語は終わる。でもね、彼は決してノアにはなれなかった、それだけは決まっている。だって彼は人間でもなんでもないから。  実は彼、人工知能を搭載したコミュニケーションロボットだったの、一人での長距離の船旅でも孤独にならないように造られ、宇宙船に備え付けられた機械。彼の回路は衝突のタイミングで狂って、だから自分を人間だと勘違いしたし、同じ光景を再生することを夢だと勘違いした。だから、大洪水が起きるという啓示もただのエラー。  カロンというのはギリシア神話に出てくる、彼岸を流れる河の渡し守。だから、カロンの方舟の行き先はどうやったって、生きる為の場所ではなく、死ぬ為の場所なのよね。  ねえ、あなたはこの物語をどう思う。これは悲劇、それとも喜劇かしら。  私は、救済の話だと良いと思ったわ。いなくなってしまったカロンの為の。自らの信仰に殉じ、人間として死んでいく彼が。壊れた機械ではなく、聖者として。  そしてそれを演じ、同じようにいなくなった桧垣君への祈りだと。 ※※※※ 『火星の聖者』の楽日が終わって、次の日だったの。最終公演が終わって、夜通しで撤収作業を終えた後。私たちの劇団では恒例として、楽日の翌日の夕方から打ち上げをすることになっていた。劇場を後にして、一旦荷物を片づけたり、身体を洗ったり、仮眠をとったりしてね。その日も同じように夕方から予約していた居酒屋前で劇団員たちは待ち合わせをした。もちろん、そこに桧垣君も来ることになっていた。  でも来なかった。彼。  これまでも打ち上げを寝過ごして参加しないことがあったから、皆あまり気にも止めていなかった。そして明日バイトのシフトが入っているからと、私は少し先にお暇することにしたの。冬の肌寒い夜をとぼとぼと歩いていた。するとね、少し遠くの方で、空が少し赤くなっているの。こう、ぼうって。  ちょうどあっちの方、紫陽花のある方角ね。今は夕焼けで一面真っ赤だけれど、その日は同じような赤色に、ほんの一部だけが染まっていた。  いつもだったら危ない所へ近寄るなんてことはしないのだけれど、その日は不思議な予感がして、私はそちらに足を運んだ。そしてその明かりの光源が家のすぐ近く、桧垣君の住むアパートだと分かった。安普請の壁や柱がまるで焼却炉にくべられたかのように轟々と燃えていた。  そしてその日から桧垣君はいなくなった。でも、亡くなったわけじゃない。  壮絶な火事だったから、焼け跡から住人の遺体が何名か見つかった。でも、その中に彼の遺体は見つからなかった。消えちゃったの。 彼の両親が捜索願も出したのだけれど、見つかることはなかった。おそらく建物が崩落したときに、遺体はばらばらになって、骨まで炭になってしまったのだろうって結論が出た。火事の原因は住人の煙草の不始末だとはっきりしていて、事件性はなかったから警察もちゃんとは調べなかったのかもしれない。  でもね、私はそう思っていない。彼はどこかで生きている。そして舞台に立ち続けているんじゃないかって信じているの。カロンは海の向こうに、彼にとって救いの場所を見つけたって。  私はその後すぐに『劇団ボルジア』を退団した。あれだけ求めていた演劇から離れた。でもそんな想像だけはいつまでも捨てられなくて。だから彼の為の舞台装置を作り続けることを決めたの。それが私の人生。消えた人へ捧げる祈りそのものに。  だから、ここにある舞台道具の殆どはね、本当に舞台で使った道具じゃない。私の想像の中でだけ作られた、カロンの舞台の為に。金槌と鋸と釘が私のロザリオだった。 ※※※※ 『人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの』って言葉。ご存じかしら。寺山修司さんの作品の中の台詞。作品自体は私、観たことはないのだけれど。  演劇をしていた頃はろくに知識もない癖に、一端に詩とか戯曲なんかを読み漁っていたわ。でもほとんど忘れちゃった。ただその中で、印象深くて覚えているのがこの言葉。だって私は、いい役を演じたいと思ったことはなかったから。ただ役があれば、台詞がわかっていればよかった、私の人生に。 『火星の聖者』が終わって、撤収作業の最中にね。桧垣君と少し話をしたの。 次の日にいなくなったから、それが最後の会話。なんでもないような、それでいて大切な思い出。作業が終わって夜の端が明るんでくる暁の中、皆はめいめい帰る支度をしている中で、彼は劇場外のベンチに座っていたの。  煙草を吸うわけでもなく、寒い中ぼうっと座っている彼が気になって、しばらく見ていたの。すると彼はこう、ちょいちょいって手で私を呼びつけた。 どうしたのって尋ねると彼、『舞台にもう一人役者が欲しくなった』って。 舞台、何それと私が尋ねると彼は笑ったわ。困ったように眉尻を下げる下手な笑顔、いつもの笑い方で。 『劇の幕が下りた朝はさ、人生が一幕のお芝居だということをしみじみと感じるんだよ、ミイちゃん』って。  何それって私はまた言う。彼は再び前を向いて、組んだ手の上に頭をのせて、滔々と語る。 『舞台の幕が下りて、撤収作業をして頭がふらふらになって、こうして暁の空を見ていると、あの夜空が緞帳のように思えるんだ。そして、また別の舞台が始まるって。そうやって何度も、何度も舞台を演じていく』 桧垣君はその中で、できるだけいい役を演じたいのかしら、と私が茶化すと、今度は『何それ』と彼が言った。 『人生に良い役も悪い役もないよ』って、当たり前のように。  私もその時疲れていたからかしら、その言葉に何だか泣き出しそうになってしまった。それはきっと、カロンの見せてくれた新たな土地だったから。  それで泣きそうなのを知られたくなくて、そろそろ帰る準備しないと、って私は彼の横をいそいそと立ち去った。 『紫陽花、ちゃんとさぼらず育てているか』って。そんな呼びかけに私は、彼と同じように下手くそな笑顔で答えて。それで終わり。 ※※※※  もうそろそろ夕日が沈むわね。  今日という舞台の幕が下りる。でもまた新しい幕が明日には上がる。毎日そう思って生きて、生きて。気づいたら四十年近くが経って、お婆さんになっちゃって。随分と色んなことを忘れてしまった。桧垣君の顔も匂いも、もう曖昧になってしまった。でもね、祈りは続いている。それはもしかしたら死んでも続いていくのかもね。  この部屋すべてが祈りで、それが私の役割だった。  ねえ、あなたは今、どんなことを考えているの。  ――そうね、あの窓、あの辺りだけ舞台道具を置いていないの。他の窓の傍には並べているのに、あの一角だけ不自然に、拓けて見える。  それはね、あの空間も一つの作品だから。あの窓からは一番、庭の紫陽花がよく見えるから。綺麗に咲き誇っている彼らの下、あの土の下に大切なものを隠したから。綺麗な桜の木の下には、死体が埋まっているように。  だから、あの空間は私の一番大切な作品で、その名前は『紫陽花葬』。  ――ふふ、桧垣君は埋まっていないわ。  あの夜、本当は私だけが彼の遺体を見つけていて、そっと家に連れて帰って埋めたなんて。そんな過剰なドラマはここにはないの。  代わりに、あの場所に埋葬したのは私自身。  あなたも本当は知っているでしょう。だってあなたは私だもの。私が埋めたいくつもの可能性。演劇を知らなければ、彼に出会わなければあったかもしれない恨み節の未来。彼の為の舞台道具を作ったり、『劇団ボルジア』のことを思い出したりする度に、泡沫のように浮かび上がってくる、私の亡霊さん。  こうやって何度も話して、何度も埋めていったから。三十年間ずっと、あの夜空の端が燃えた日から。  夕闇が濃くなっていく。闇に溶けて、私たちはとっぷりと混じりあう。次の舞台の幕が上がるまで、ひっそりと息をひそめて。  私の死体が眠るこの屋敷で、今日も私は舞台に上がる自分自身の夢を見る。
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