たまに交わる世界

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「バーッカ!!」  若い女性の怒鳴り声と、水音。  カフェの隅の席を使っていた土江文香(つちえふみか)がスマートフォンから顔を上げ、発生源に視線を移すと、フロアの中心あたりに位置するテーブルを挟み、一組のカップルの姿があった。女性は立ち上がっており、空のグラスを握っていた。その片割れの男性は、下げた頭から水を滴らせていた。  女性はまだ怒りが収まらないといった様子でグラスを乱暴にテーブルに戻すと、椅子に置いていたハンドバッグを引っ掴み、ヒールの音を激しく鳴らしながら店を出て行った。残された男性の方はというと…店内の注目の的になった。  その時点で、文香は他の客と違い、既にカップルへの興味を失っていた。カフェで水をかけたりかけられたり、ドラマでしか観たことのないシチュエーションは多少は面白かったが、肝心の山場はすでに終わった。休日は、短い。基本的に、他所のカップルの痴話喧嘩を気にしている暇など、ないのだ。  だから、文香はすぐに自分の作業に戻ろうとした。だが、ふと、ずぶ濡れの若い男性から目が離せなくなった。彼にどこか、見覚えがあるような気がしたから。  男性は頭を持ち上げると、ぼんやりと店内を眺め回した。店の客たちは一斉に、彼から目を逸らした。文香は一歩出遅れた。横顔ではなく、より正面に近い角度から見た方が、自分の知り合いかどうかが分かると思ったのだ。  結局、文香より先に、男性の方が知り合いの存在に気が付いた。 「土江さんじゃないですか」  文香の方も、男性が発した声を聞いて、ようやく記憶の中の人物と目の前の人物とが一致した。文香は一年前、働いている会社で、彼、宮本将太(みやもとしょうた)の教育係を務めたのだった。 「あ…。どうも、お元気でしたか…」  文香は言ってしまってから、この状況で元気かと問うのもなぁと、自分の発言につっこんだ。「そっち、ご一緒してもいいですか?」と宮本に訊かれ、店内の注目を一身に集める彼に寄ってこられるのは少々迷惑な気もしたが、会社の先輩としては断るのも憚られ、文香は不愛想気味に「あぁ、はい」と頷いた。  宮本は自分の荷物を肩にかけ、手にコーヒーカップと伝票を持つと、「水浸しにして、すみません。あっちの席、移ります」と店員に断りを入れた。そうして狭い店内を移動し、文香の前の席の傍らにやって来た。  いよいよ彼が席に着こうとしたところで、余計な口出しとは思いつつ、元教育係の名残か我慢できずに文香は宮本に言った。 「あの、追わなくていいの?」 「えっ?」 「さっきの、……彼女さん?」 「ああ」  宮本は一度止めた動作を再開させると、文香の前の席に坐った。 「『ああ』って、彼女、もしかして追ってきて欲しいんじゃ…」  そう言いながら文香がテーブルの紙ナプキンを差し出すのを、宮本は「あざっす」と受け取った。 「あー…。いいです。なんか、もう、彼女とは終わってたというか…」  なんだったら、頭を拭くのにバッグの中のハンカチを貸してやろうかとも思っていた文香だったが、宮本の女性に対するいい加減且つ冷淡な言い種に、その気は失せ、こいつには紙ナプキンで十分だという判断を下した。しかし、カフェの店員が宮本にタオルを差し出し、下がって行った。 「お店にも迷惑かけちゃったな。土江さんにも、すみません。一人でさっきの席にいるのも微妙で、つい…」 「あ、私は別にいいんですけど」  ここで、赤の他人との相席であれば自分の作業に戻れるものだが、久し振りに会う会社の後輩相手にはそうもいかず、宮本と何となく目が合った文香は「仕事は、どう?今の部署は?」と、状況の流れ的にはやや不自然だが、当たり障りの無さそうな質問に縋った。 「みなさん、親身に相談にのって下さいますし、よくしてもらってます。そりゃ、本社にいた時とは比較にならないくらい厳しいですけど、土江さんの扱きに耐えた俺ですから」 「わたし、扱いたっけ?」 「冗談です。天使か女神のようでした」  宮本は暢気に、ふふふと笑った。  文香は、そういえば研修中も人懐こくて親しみやすい後輩だったと思い出したが、先程の女性への冷たさとのギャップに、却って、宮本に対して責めたいような気持ちが増した。 「土江さんは今日は?なんか、大荷物ですけど」  宮本は、文香の足元に佇む大容量のナイロン製トートバッグを見て、尋ねてきた。 「うん…。ちょっと、イベントにね」 「へぇー。そんなのここらへんでやってたんですか?音楽のですか?それとも、食べ物のヤツとか…」  宮本は言いながらも、自分の言っている説が、どれも特大トートバッグの説明には当たらないと、気が付いてはいたようだった。文香は面倒くさいなぁとは思ったが、嘘をつくのも隠すのも、なお面倒だと観念し、正直に申告した。 「同人誌の即売会に行ってきたの」 「同人誌って、あの、『薄い本』ってやつですか?」  その方面には全く興味が無さそうなわりに、よく知っていたなと変に感心しつつ、文香は「そう」と肯定した。 「あれですか?腐女子とか、ボーイズ…ラブ?とかって」 「宮本さん、同人誌がみんな、そういう類ってわけではない」 「あっ、すみません」 「私が今日買ったのは全部、ボーイズラブだけど」 「さっきの謝罪、撤回します。でも、凄い量ですね。薄い本って、高いんでしょう?それを、その大きさのバッグにパンパンって…」 「全部私のって訳じゃなくて、イベント来れなかった趣味友のもあるけどね。さっき戦果報告したから、これから送ろうかと…って、何?」  文香がバッグのある足元から正面に顔の向きを戻すと、何故か、宮本の眉間に皺が寄っていた。 「なんか、土江さん、楽しそうですね」 「休みの日だからね。やっぱ、仕事してる時とは違うよ」 「そうじゃなくて…それもそうなんですけど、なんか充実しているというか」  今度は文香の眉間の方に、深々と皺が刻まれた。 「私から言わせれば、ドラマの如く公共の場所で女性に水ぶっかけられてる人の方が、よっぽど面白く見えるけど?」 「いや、俺は全然ダメです。休みとか一人で過ごせないし」  「何?自慢なの?」と、文香の表情は険しさを増したが、宮本には伝わらず、彼は自虐を続けた。 「だからって彼女も作るけど、結局、いつも長く続けられないし…」 「あのね、オタクにも彼氏彼女いる人、普通にいるから」 「土江さん、彼氏いるんですか」 「いや、私にはいないけど」  「あれ?このやりとり、デジャブだな」と思いつつ、さっきから煮え切らない後輩に、文香は言ってやった。 「宮本さんも、オタクになればいいじゃん」  宮本は、文香を見た。パンパンに膨れたトートバッグを見た。遠くを見た。そうして、曖昧だが、はっきりとした否定を含む笑みを浮かべた。
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