ベガ

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 高校三年生の夏の初め。あの日は、半袖Tシャツの上に綿素材の前開きシャツを羽織っていた。寒くもなかったし、暑くもなかった。だから何も考えず、ぴっちりと窓を閉めていた。  たとえば道路を走る車のロードノイズ。たとえば風に乗った踏切りの音階。たとえば夕焼けを飛ぶ(からす)の鳴き声。――空間を切り裂こうとする音は、全てが窓の向こう側だった。壁の掛け時計、時を刻む秒針はわずかに空気を震わせたけれど、それを切り裂くにはあまりにも微かで、弱すぎた。  かすれた息の音が、身体の中の血を昂らせた。見下ろす先、夏素材の白いパーカーのフードが床に広がった髪の下敷きになっていて、まるで織姫の羽衣のようだと思った。その瞬間に高校三年生の自分は、こちらを見上げる眼差しが小刻みに揺れていることに気付いたのだ。  大切にしたいだとか慈しみたいだとか、愛というものに連なる感情が美しいというのは嘘ではないと思う。けれどそれが少し行き過ぎるだけで、自分本位な欲になってしまうのだということを、あの日に知った。  夜空を見上げたときに、あの日感じた恐れを思い出すことがある。輝く星は美しいけれど、星――恒星(こうせい)の正体は核融合反応を繰り返し自らエネルギーを発する天体だ。燃えさかる炎のかたまりのようなもの。  三月の初め、午後七時。南の空に光るおおいぬ座のシリウスを瞳に映しながら、小さく息を吐く。来年度から担任をすることになりそうなの、と昨晩スマホ越しに聞いた声はひどく緊張していた。けれど、緊張の隙間からは喜びや嬉しさが確かに感じ取れた。仕事をしていく中で、きっと自分も出したことがある声だ。  耳の奥で、恋人の声が人事部長の声に上書きされる。辞令を下すときの、かしこまった独特の口調。振り切るように、小さく頭を振る。襟元から入り込んできた風はまだ冬を忘れていないようで、驚くほどに冷たかった。
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