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あれは雪の日だったと思う。よく覚えてはいないのだが、サクサクという音と滑りやすい坂道、そして刺すような冷たい空気は思い出せるのだ。アタシはその日に出会ったよく知らない男と山道を歩いた後、ボロい小屋のような場所で横になって目を瞑った。そんなことしか覚えてない。
男と出会う前を思い出そうとすると、暗い目の前が赤くなるような気がする。多分、親兄弟とかと一緒に居たんだと思うけど、酷いことをされたのか、思い出したくないのだ。ただ、ボロのベベを着た小さい娘の涙目だけが時折目の裏に浮かんで、苦しくなる。あの小さな手を今すぐ掴んで、ギュッとしたくなるのだ。
そんなことを考えながら暗い場所で漂っていたせいか、ある時ほんのり暖かい水が体に降り注がれ、体をギュッとされた。辺りがうっすらと明るくなった気がする。アタシは久しぶりに瞼を開けることにした。
するとどうしたことだろうっ!目の前にはアタシの何倍も大きな頭の子供が涙をボトボトとアタシの顔に落としてくるのだ。嵐の中みたいに頭も顔もビチャビチャで、涙を止めるために、薄目しか開けないアタシは可哀想な巨人の子の頬を右手で押した。プニュプニュとした頬を押すアタシの手は、虎柄の毛に覆われた獣の手だった。
「ニャ、ニャーーっ!?」
驚いたアタシの叫びを聞いた巨人の子は、目を大きく開いた後、顔をクシャクシャにしてまた泣いた。
「トラーッ!生き返った―――ッ」
巨人の子はいつまでもアタシの体を両腕でギュッとしながらベソベソ泣くので、アタシは頭を動かして辺りを見回した。
大きい草に大きい花。大きい木の下には大きい落ち葉に大きいドングリ。このドングリ、秋なのにひもじい時、小さい娘と一緒に集めたヤツと同じ形だ。逆にアタシの手はフサフサで、手のひらが妙に敏感で、目の端に時折フサフサの紐らしきものがチラチラ見える。
……どうやらアタシが小さくなったみたいだ。あれか。前に寺の坊様が死んだらいろんな物になって生まれるとか言ってたヤツか。そうか、アタシは死んだのか。
変だなあ。死ぬのは怖いことだったのに、死んだ後は怖くない。今、生きてるからかな、獣みたいだけど。
「ゴメンね、ゴメンね。お父さんが急に蹴飛ばして。お父さんが拾ってきた猫だから、大丈夫だと思ってゴメンねっ!」
獣とはいえ生まれたせいか、ちょっとずつ昔の事を思い出してきてるなあと考えていたら、巨人の子がアタシの耳元で苦しそうにそう言った。
アタシはブワッと思い出した。
アタシのカア様は妹のシノを生んで死んだ。でも、シノがいなくてもカア様は死んでたと思う。
トウ様は酒ばかり飲んでカア様を殴ったりこき使ったりしてたから。カア様が死んでから、トウ様はアタシをこき使った。でもアタシはまだ子供でカア様ほど稼げなくて、トウ様は酒代の為に、あの雪の日、初めてあった男にアタシを売った。アタシが故郷で最後に見たのは、銭の入った袋を嬉しそうに手に持つトウ様と、アタシを追いかけようとして雪の中へと転んだ泣き叫ぶシノだ。
あの後、アタシは故郷を囲む山々を越えられなくて、寒さに凍えて死んだ。トウ様の鬼のような所業と、シノへの心配で元気がなかったんだと思う。
巨人の子、ではないな、きっと。異人さんのような着物の子は、前の私のような黒い髪に黒い目をしている。アタシが死んだ後、子供はこういう服を着るようになったんだろう。子供はグズグズと泣いていたが、やがてアタシを大きな木の根元にある洞穴に降ろした。
「トラ……ここでお別れしよ。お家に帰ったら、お父さん、今度こそトラを死なせちゃう。だから、ここでバイバイしよ……」
そう言うと、チラチラとこちらを見ながらもゆっくりと遠ざかって行く。
アタシはちょっとだけ考えた。アタシは獣になってまだ一日だ。絶対に餌は自分で取れない。すぐに死ぬ。それに、あの子供が気になるのだ。短いモモヒキの下からチラチラとアザのようなものが見えたし、あの子のトオ様も鬼のようだ。アタシが居なくなった後、シノは無事だったろうか。
今も生きてるだろうか。でも、獣のアタシには何もできない。だけど、あの子供はまだアタシの側に居る。今なら、くっ付いて家へいける。家に入らなくたって、床下に住んで、時々餌をもらえばいいのだ。鬼のようなトウ様には何も出来なくても、側に居られれば、たまには笑えるのだ。アタシとシノのように。
決めたアタシは、初めての四足でヨタヨタするけれど、あの子供を追いかけた。シノの手の変わりに、あの子供の手にギュッとするために。
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