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その日、私は出会った。
カリカリ、カリカリとゼンマイが巻かれていく。胸元から起動鍵が抜き取られると、私の中の機構がカタカタと動き始める。
振動が全身に満ちてから、私は、ゆっくりとまぶたを開いた。
「おはよう、お人形サン」
降ってきた声に顔を上げると、精悍な顔立ちの男と目が合った。黒いシャツをラフに着た彼は、目じりを弛めて私に微笑みかけてくれる。
「……っ」
人間でいえば、『息を飲む』とでもいうのだろうか。
その瞬間、私は彼を見上げたまま、動けなくなった。まるで、歯車がかみ合わなくなってしまったようだった。原因が何かはわからない。
ただ……素敵、だと思った。
「……おはようございます、マスター」
数秒の反応の遅れののちに、引っかかった歯車を強引に動かした。どこかぎこちない動作のまま、深く敬礼する。
私はこのとき初めて、喜びを表現できないことを歯がゆく思った。不具合のある私の体は、微笑むことが難しかったのである。
それなのに、この方はわずかも嫌な顔をしなかった。
「僕は、アビス。この屋敷の主人だ。あなたにはこれから、僕の助けになってほしい」
「かしこまりました、アビス様。貴方様の所有物となった証として、私に、名前の入力をお願いいたします」
私たち人形は、起動鍵でゼンマイを巻き、名前を付けた人物がその個体の正式な所有者となる。
ひとつうなずいたアビス様は、考えるそぶりを見せる。しばらく私の顔を見つめたのちに、何か思いついたようだった。
「カヌレ」
「『カヌレ』で、よろしいでしょうか?」
「ああ。そう呼んでもいいかな」
「承知いたしました。私はこれより、ご主人様の『カヌレ』でございます」
一礼したときにさらりと流れた私のショートカットヘアは、フランスの洋菓子と同じ色。カヌレ・ボルドーの焼き色と同じ、焦げ茶色だった。
その日、私は出会った。
私を最後まで、大切にしてくれた唯一の人間に。
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