第三話

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 ギャラリーを出ると、近くの店で土産の焼き菓子と平桃を買って、三十分かけてアトリエに戻った。  客人の姿はもうすでになく、光の丘には、カンヴァスに向き合う男の姿、ただひとつだけだった。そして、その唯一の存在も、彼女が帰ってきたことには一瞥もくれず、筆先に神経を集中させているようだった。  ももはいつものように男のそばへ寄ると、斜め後ろ、男の死角になるだろう位置にすとんと腰を下ろした。もしかすると、知らず知らずのうちに疲れていたのかもしれない、草が肌をくすぐる感覚すら気にもならなかった。彼女はただひたすらに、大きな背を眺めた。  ところどころ絵の具のついたカーゴパンツ、動きに合わせて揺れるフランネルのシャツ。くたびれた襟から伸びる首は、画家のそれにしては太く立派である。  いくら腕を動かしても、表情のかわらぬ精悍な横顔、そして、一ミリたりとも揺らぐことのない堅いまなざし。  ももは男を見つめながら、不意に喉が渇いて購入した平桃を食べることにした。  もう間もなく旬が終わるだろうその果実にひと口かぶりつくと、じゅわっと果汁が口の中に広がった。適度な固さと酸味、それからその香りの豊かさは、疲れた体にはまさに特効薬であった。  日本の桃とはまたひと味違った味わいは、じんわりと沁み渡る。かぶりついたところにまみえる白い果肉は、中心へ近付くにつれて赤く染まっており、それがなんとも食欲をそそって、またひと口、さらにまたひと口、と円盤型の熟れたその実にかぶりつく手が止まらなかった。  食べ終わったところで、低い声が耳を撫でた。 「どうだった」  フランス語というのは、実に不思議な響きがある。掠れ声に近い円熟した男の声はひどく婀娜(あだ)っぽく、それだけでひとつの音楽のようだ。  あの複雑な光を放つ虹彩を一心に目の前のセーヌに注いだままの男に、ももは答えた。 「とても、綺麗でした」  彼女もまた、風景を目に刻む男の姿を映したまま。 「そうか」男は手を止めることなく返した。  西陽が強く照りつけていた。  風に男のグレーの髪がそよぎ、その聡明な額や精悍な頬、それから、熱いまなざしが目映いほどの光を集めている。  大きな体が、逞しい腕が、まったりと金色に染まり、繊細な指先はまるでその筆の軌跡(きせき)を一本一本愛するようにカンヴァスをなぞっていく。  ——ああ、これに(まさ)る美しさがどころにあろう。  ももははっきりと思った。  どんな絵画よりも、どんな風景よりも、今この瞬間が芸術そのものだと。  全身が叫んでいた。  呼吸が止まり、激しく鼓動が打つ。  この心の揺さぶりがなんなのか、彼女は知らない。  彼の影を浴びながら、指についた甘い果汁を女は紅い舌で舐めとった。
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