第四話

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 ザアザア、薄暗いダイニングキッチンに、水の流れる音が響いている。 「さっきのは、剥離剤だ」  冷たい水の中で、赤くなったももの手を洗いながら男が言った。 「それは……」 「乾燥した絵の具を剥がすときに使う。テレピン油とは違って、絵の具自体を溶かす力がある」  油絵の具を溶解する力があるということは、かなりの強い液体だ。蓋を開けた瞬間刺激臭がしたのも、今、皮膚が焼けるように痛むのも頷けた。 「手袋などで皮膚を覆って使うのが常識だ」などと、ちくちく小言を寄越す男に、ももは流水に打たれた大きな手を見つめながら小さく謝る。  ももの皮膚の何倍も分厚く、ガサついて、青や白、それから緑、絵の具がついたままの男の手が、彼女の手の甲やひら、それから指間部やはらなどわ余すところなくなぞっていた。 「だが、私にも過失はある。君があそこにあるものに興味を持つのはわかっていた」  頭上の鈍いライトのみが照らすダイニングに、男の低い掠れ声が響く。  先に言っておくべきだった、そう告げる声はどことなく涸れた印象を与えるが、ひどく(あで)やかだった。 「そんなこと……」  抗えない成熟した魅力に唇を隠しながら、ももはかぶりを振る。 「わたしが、勝手に触ったから。本当に、ごめんなさ——」  伏せていた視線を上げた彼女は、濡れた唇をだらしなくも半開きにした。  すぐそばに、ダビデ像のような横顔があった。その睫毛の繊細さや密度、さらにはその奥の瞳の色までも、はっきり認識できるほど、近くに。  斜めに差し込んだ橙の光に、精悍な横顔が照らされている。  色素の薄い睫毛に縁取られたヘーゼルの瞳は、昼間深い緑色だったのを今や輝かしい金色(こんじき)に染めている。それから、高い鼻すじに、すっきりとした頬、カサついた、こぶりな唇。 「とにかく、油彩の道具には、人体に悪影響を及ぼすものもある。あの液体がいい例だ。ほかにもテレピン油、ペトロール、詳しくは、また説明する」  男が話す間も、半ば手のひらの痺れに浮かされたようなまなざしで、ももは男を見つめていた。  顎に広がる、およそ数日分と思われる髭。気難しそうな印象を濃くするが、それが、かえって、男の綺麗な顔立ちを男らしく見せては、彼女の白い喉元を疼かせた。 「……いいな?」  ウィ、ムッシュー、か細いももの声がザアザアと流れる水音に溶ける。  しばらく、ももはそのままだった。大きな手が自分の手の甲を撫でるたび、伏せた睫毛がライトに瞬くたび、ほのかに苦い香りが鼻を掠めるたび、目の奥に戦慄(せんりつ)が走った。だが彼女は、じっと、じいっと男の横顔を見つめていた。そのこげ茶色の瞳を鈍く赤色に染めて、それこそ、陶酔(とうすい)に近いまなざしで。  いつからだろうか、彼をそんな目で見るようになったのは。  彼女の視線を遮るものはなにもない。男は気づいているのか、いないのか。はたまた、気づいていながら、知らぬそぶりを見せているのか、流れる水をひたすら追いかけているのみであった。 「名前は」  やがて、その沈黙を破ったのは、男だった。  かさついた唇の、ゆったりとした動きに疼きを強めながら、ももはごくりと唾を飲み下して答えた。 「……モモです。モモ・イガリ」  あなたは? 次いで、訊き返す。 「シモン・ロンベール」  シモン、ロンベール。ももは小さくその名を口の中で転がした。もちろん、ムッシューというのをつけるのを忘れずに。  シモン。  シモン・ロンベール。  ムッシュー・シモン・ロンベール。  何度も何度も脳裏で繰り返した。それは、彼女を格調高き詩を(そら)んじるような心地にさせた。 「ムッシュー・ロンベールと呼んでも、構いませんか」  夢中になってこぼした吐息を搔き集めて、ももは言った。  この熱が伝わってはいないだろうか。ももは案じたが、シモンは動じるそぶりを微塵も見せることはなかった。 「好きにすればいい」  コム・ヴ・ヴレ(Comme vous voulez)——淀みなく告げる彼に、ももは唇を舐める。  アトリエに来たばかりの頃にも、投げられた言葉だ。だが、以前とは違う。少しばかり呆れを含んだような、微かに丸みを帯びた声にも聞こえた。 「ありがとう、ムッシュー・ロンベール」  流水で念入りに剥離剤が落とされた手のひらは、ヒリヒリとした感覚が薄くなっている。心なしか、胸の内にあたたかななにかがじんわりと滲んだ気がして、ももは魔法を唱えるように声を震わせた。  水を止め、ももの手をやさしくタオルで挟みながら、シモンは、どういたしまして(ドゥ・リアン)、と顔色を変えずに言った。  ワックスの禿げたフローリングに、二つの影が伸びている。不思議と、ぴったり寄り添っているように見えた。
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