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さあ、今日はどんな魔法をかけるのだろう。
ももは真っ白なカンヴァスに慄いたことなど忘れて、大男を見守る。
シモンはまず小皿に色を作り始めた。
使用したのはいつものセルリアンブルーではなく、紫に近い紺と赤みの強い茶色――ウルトラマリンとバーントシエンナとい色だった。
二つの色を組み合わせて黒を作り、それから、赤ーーマゼンタを加えて、青味のグレイを生み出すと、油——独特の石油臭さがが掠めたので、多分ペトロールだろう——をいつもより多めに出して水状に溶かした。
目の前のジヴェルニーの景色にそんな色はない。
細身の筆から刷毛に持ち替えたシモンに、果たしてなにを描くのかとももは自然と胸を高鳴らせる。
真っ白な世界にかかる、青とも黒ともつかぬ、薄いカーテン。
絵画とは不思議だ。いや、“シモン・ロンベールという画家の描く絵”、といったほうがいいかもしれない。
さっきまで目を逸らしたくてたまらなかったカンヴァスに、気がつけば夢中になっているではないか。
いつもこうだ。ひとたび彼の筆が入れば、それこそ魔法にかけられたようにその筆の先を一心に追いかけている。あらゆる苦渋も絶望も、そして虚無も、すべてを忘れて。
なぜだろう。ももは男が咥え煙草をしたまま、筆を握るのを眺めながら思う。
彼の絵よりも、傑作といわれる作品は数多く存在するというのに、どうして、こんなにも惹きつけられてしまうのだろうか。
目映い陽射しをたっぷりと溜め込んだ彼の世界からは、まるで強い磁力で引きつけられるように目を離すことはできない。
カンヴァスに吹く風が、匂い立つ香りが、儚い温もりが、切なく心を揺さぶっては、ももをそこに縛りつけていくのだ。
一体、なにがそうさせるのか。そして、そのような絵を創造するのは、どんな人間なのか。
なにを思い、筆をすべらせるのだろう。その七色に変わる瞳に、なにを映しているというのだろう。
カンヴァスをブルーグレーに染め上げ、刷毛を筆に持ち替えたシモンは、指先で下塗りが乾いたかを確認して、ついに本描きを始めた。
ザッザッ、音を立てながら流れるような手つきでカンヴァスをなぞる。そこには一切の迷いがない。
「……きれい」
うっとりと呟いたももを、シモンがちらりと一瞥を寄越したことに彼女は気づかない。
捲り上げたシャツから伸びる、逞しい腕。カンヴァスを左から右へ忙しなく動くたびに、そこには太い血管が浮き上がっている。広い肩、がっしりとした首。グレーの髪がさらりと揺れては額を掠め、頬骨の天辺は光に艶めき、深い眼窩には、影が。
鼓動が速くなる。
呼吸が、浅くなる。
いつしか、ももはあることを思うようになっていた。
画家の、髪に指を通し、梳かすような繊細な筆使いに。纏っているヴェールを手繰って、その下に隠された柔肌を味わう、熱く、はげしいまなざしに。
――彼に描かれるのは、どんな、心地なのだろう、と。
自分の中に沸き上がる感情に、ももは戸惑う。自己顕示欲にも、独占欲にも似たその感情は、かつて感じたことのないような、もはや衝動だ。
そして同時に疑問も抱いた。
彼の絵画に、人間が存在しないことを——。
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