第七話

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第七話

 昨夜から降り出した雨は、朝になっても止むことはなかった。  しとしと、灰色の空からいくつもの雫が降りてくる。石畳を、あるいはブティックのガラス窓やカフェの庇を、容赦なく打ち付けては小さな飛沫が立つ。  ももはヴェルノンに居た。  駅から数分、郵便局を越えたアルビュフェラ通りにあるブーランジェリーの店先、手には焼き立てのパン・オ・ショコラを抱えて、降り頻る雨を眺めていた。  雨は嫌いではない。むしろ、大荷物を抱えているときや、お気に入りの服やヒールの高いパンプスを身につけたときに降る雨、傘を差していても吹き込んでくるほどの豪雨をのぞいては、こうして真っ直ぐに落ちて静かに音を奏でる雨を、ももは愛しているようにも思えた。  小さな雫が幾重にも連なり、上等なレースのカーテンとなって包み込んでくれる。  どこか切なくも、やさしく頬を撫でては、ももをあらゆることから隔ててくれる。  一台の車が道路にできた水たまりを弾き、ももはひとりでに呟いた。 「……行っても、大丈夫かしら」  雨音に混じってしまいそうなほど、小さい。  ここまで来ておきながら、ももは迷っていた。シモンの元へ行ったとしても、この様子では戸外制作を行うことはないだろう。雨足はさほど強くないが、五分も立っていれば髪は額にはり付くであろうし、足元はぬかるみ油彩どころではない。  だが、ももはここまで来てしまったのだ。  冷たくなった手をぎゅっと腹の前で揉み合わせると、かさり、雨の音に混じって、紙が擦れる音がする。  毎日絵を描き続けるシモンのことだ。戸外制作ができなくとも、アトリエで筆をとるかもしれない。彼の描く雨の景色を見てみたいと心はそちらへ引き寄せられるが、同時に、あの足の踏み場が三畳あるかないかの狭く雑多な空間に自分がいては、息苦しくはないだろうかと懸念がよぎる。  あれほど後ろから穴が空くほど眺めておきながら、今更そのような心配をするのもおかしな話だ。
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