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「なにか用か」
旅の思い出を残すのも忘れて、その瞳にただひたすら光を集めていたももは、ハッとして声の聞こえてきたほうを向いた。
無造作に伸ばされたグレーの髪、スッと通った鼻すじに、口元には無精髭。一人の男が西陽を浴びて、眩しそうに瞳を細めていた。深い眼嵩や高い額が、浅く日に焼けた肌に濃く陰影を刻んでいる。
この土地の所有者か。小屋の裏手から出てきただろう男に、ももは慌てて、すみません、と英語で謝った。
「下を歩いていたらカンヴァスが見えて、その、つい、登ってきてしまって」
必死で言葉を紡ぐももをよそに、男はそばに立ててあるイーゼルへと歩み寄ってくる。
薄墨のフランネルシャツとカーゴパンツを履いたその姿は、遠目で見るよりもはるかに身長が高い。ももの頭ひとつ分は大きいだろうか、その迫力に驚いて反射的に身構えるももだが、男はただ彼女を一瞥しただけだった。
それどころか、「それで……」と謝罪を続けようとする彼女の前で、イーゼルの位置を整えて、カーゴパンツの腰にさしていた木製のパレットと筆を取り出すとカンヴァスに向き合った。
思いがけない行動にももは口を噤む。
斜め前、一メートルも離れていない場所で、男がまっすぐにセーヌと対峙している。
淡く金色に染まるその面差しは、自分のものと違って彫刻のように彫りが深い。色素の薄い睫毛は揺れるたびに光のカーテンを纏うが、緑とも黄色ともつかない不思議な虹彩を持つ瞳に微かな影を落としている。
ごくり、気がつけばももは唾を飲み下していた。
パレットの穴に親指を通し、男は青色の絵の具をそこへ出し、筆に色をとる。それから、迷いのない仕草で真っ白な布地にそれを載せては、ザッ、ザッと無作為な音を立てて色彩を宿していく。
「すごい……」
気がつけば、筆ではなく杖を持っているのではないかと錯覚させるような、荒々しくも繊細なその動きから目が離せなくなっていた。男が空を生み出すのを、青のほかに、なんと次は黄色い絵の具をパレットに出して新たな筆に載せるのを、一心になってももは見つめる。
「モネなら、あと三十分歩けば着くぞ」
男が手を止めずに言うと、「ここで、見ていてもいいですか」と、たどたどしくフランス語で言葉を繋げてももは返した。
「見世物じゃない」
「邪魔はしません、お願いします。あなたの絵を見たいんです」
なぜ、そんなことを口にしているのか。なぜ、こんななにもない、変哲のない丘の上で立ち止まっているのか、ももにもわからなかった。
ただ、この一瞬を、この時を逃してはならない、そう思ったのだ。
やがて、そのやりとりすら面倒になったのか、男は、話しかけないでくれよ、とだけ口にして筆をとり続けた。
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