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第九話
埃っぽいような、湿っぽいような、ふと懐かしくなるような匂いがする。ああ、これはあの渡り廊下だ、ももは思った。
がやがやと騒めく緑色の廊下をゆっくりと進んでいく。胸には大きなスケッチブックと、教科書と筆箱。昔流行った、長方形で両側に文房具を収納できるやつだ。
鼻をつく独特な匂いに友人たちがああだこうだと文句を言う中で、少女だけはぎゅうと胸を抱きしめて廊下を進み、階段を上っていく。
とりたてて、図工の授業が好きなわけではなかった。絵のセンスがあったわけでも、工作が得意だったわけでもない。それでも、この不思議な香りを味わうのは、少女にとって、とても特別な時間だった。
場面が、切り替わる。
——伊賀利さん、次の学級委員とかどうかな?
薄紅色のセーターを羽織った女性が、グレーの机をとんとんと指先で叩いている。ぽつんとインク染みのような口元のホクロが印象的だった。
——真面目で、責任感もあるし
ミーン、ミーン、蝉の鳴く声がする。窓の向こうには、ユニフォーム姿の少年たちがボールを追いかけている。
——人前で話すことが苦手?
こっくり頷いた少女に、大丈夫よ、と彼女は笑った。
——すぐに慣れるわ
また、場面が変わる。
脳がマドラーかなにかでかき乱されているような、そんな感覚だった。目の前に滔々と広がる光景 、次々と移り変わる背景。いずれも、記憶の海に奥深く眠っていたもの。
浮かび上がる気配はない。そして、地の底へ辿り着く兆しも。
伊賀利さんは、教師とか向いていると思うな。或る女が言った。
なんのために大学行かせたと思ってるの。母は怒った。
これで、お父さんもお母さんも安心だわ。母は笑った。
ひと回し、ひと回し、円を描いては、やがて混ざり合っていく。
もも、好きやで。男が笑う。
あまり、会いたいと思わへんねん。無機質な声が紡ぐ。
もも以外、おらん。逞しい胸板が映る。
今度、親御さんに挨拶いかんとな。不恰好に大きい八重歯が覗く。
明るく、鮮やかだったのが次第にどす黒くなっていく。黒い絵の具を滴らせたように、その色彩を失っていく。
本当に、ごめん。男の顔は絵の具で掠れている。
もも、結婚しよう。顔から崩れ落ちた目が、鼻が、呑み込まれる。
産まれる子が、女の子やったらええな! 渦のなかから腕が伸びてくる。
彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで。いくつもの手が、腕を脚を、首を、頭を、掴む。
彼女はもがく。いやだ。連れていかないで。だれか、だれか。輪郭のない男の声が、響く。
——ホンマに、ホンマに、悪かった
そして最後には——。
——伊賀利さん、終わりましたよ
ごぽり、唇から泡がこぼれた。
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