第九話

1/4

107人が本棚に入れています
本棚に追加
/90ページ

第九話

 埃っぽいような、湿っぽいような、ふと懐かしくなるような匂いがする。ああ、これはあの渡り廊下だ、ももは思った。  がやがやと騒めく緑色の廊下をゆっくりと進んでいく。胸には大きなスケッチブックと、教科書と筆箱。昔流行った、長方形で両側に文房具を収納できるやつだ。  鼻をつく独特な匂いに友人たちがああだこうだと文句を言う中で、少女だけはぎゅうと胸を抱きしめて廊下を進み、階段を上っていく。  とりたてて、図工の授業が好きなわけではなかった。絵のセンスがあったわけでも、工作が得意だったわけでもない。それでも、この不思議な香りを味わうのは、少女にとって、とても特別な時間だった。  場面が、切り替わる。  ——伊賀利さん、次の学級委員とかどうかな?  薄紅色のセーターを羽織った女性が、グレーの机をとんとんと指先で叩いている。ぽつんとインク染みのような口元のホクロが印象的だった。  ——真面目で、責任感もあるし  ミーン、ミーン、蝉の鳴く声がする。窓の向こうには、ユニフォーム姿の少年たちがボールを追いかけている。  ——人前で話すことが苦手?  こっくり頷いた少女に、大丈夫よ、と彼女は笑った。  ——すぐに慣れるわ  また、場面が変わる。  脳がマドラーかなにかでかき乱されているような、そんな感覚だった。目の前に滔々と広がる光景 、次々と移り変わる背景。いずれも、記憶の海に奥深く眠っていたもの。  浮かび上がる気配はない。そして、地の底へ辿り着く兆しも。  伊賀利さんは、教師とか向いていると思うな。或る女が言った。  なんのために大学行かせたと思ってるの。母は怒った。  これで、お父さんもお母さんも安心だわ。母は笑った。  ひと回し、ひと回し、円を描いては、やがて混ざり合っていく。  もも、好きやで。男が笑う。  あまり、会いたいと思わへんねん。無機質な声が紡ぐ。  もも以外、おらん。逞しい胸板が映る。  今度、親御さんに挨拶いかんとな。不恰好に大きい八重歯が覗く。  明るく、鮮やかだったのが次第にどす黒くなっていく。黒い絵の具を滴らせたように、その色彩を失っていく。  本当に、ごめん。男の顔は絵の具で掠れている。  もも、結婚しよう。顔から崩れ落ちた目が、鼻が、呑み込まれる。  産まれる子が、女の子やったらええな! 渦のなかから腕が伸びてくる。  彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで。いくつもの手が、腕を脚を、首を、頭を、掴む。  彼女はもがく。いやだ。連れていかないで。だれか、だれか。輪郭のない男の声が、響く。  ——ホンマに、ホンマに、悪かった  そして最後には——。  ——伊賀利さん、終わりましたよ  ごぽり、唇から泡がこぼれた。
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加