第九話

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 濃い霧のかかっていた森は、今はもうそのヴェールを脱ぎ去っていた。疲労にも似た少しの気だるさがももの体を包んでいる。シモンの姿はそこにない。ただ、幽かな温もりは残っていた。  夜の残滓をはらうように何度か目を瞬くと、脱ぎ散らかしたはずの服がベッドの隅に丁寧に畳まれているのが目に入った。ふ、と眦を緩めて、ももはシーツから這い出てそれに手を伸ばす。夢から覚めた者とは思えぬほど鷹揚な動きだ。  昨日着ていたニットに触れたところで、その横に見覚えのあるグレーのシャツを見つけると、一寸手を迷わせたものの、そちらを羽織ってベッドから降りた。  冷ややかな温度を足の裏に感じながら、ももはダイニングに顔を出した。  寝室を出てすぐ左手、キッチンに立つ男の姿を見つけると、ボンジュール(おはよう)、と静かに声をかける。換気扇の下、煙草をくゆらせていたシモンは、一瞥だけを寄越し、ボンジュールと同じく挨拶を返した。 「コーヒーか、紅茶か」  低い声で訊ねられて、ももは目を細めた。コンロの前の男は、もうすでにいつものよれよれのシャツと絵の具まみれのカーゴパンツを身につけている。ただ、髪は常のとおり寝ぐせをつけたままの無造作ヘアな上、やかんに落とされた瞳はどこかあどけなさを孕んでいた。 「コーヒーを」  すっかりそれを堪能したあと、慣れた文句を返すとシモンはやかんを手にし、黒いマグカップにドリップコーヒーをセットした。 「クロワッサンはそっち、それからバターが必要ならそこに」  手元に湯気を立てながら、テーブルとそれからももの真横の冷蔵庫を顎でしゃくり示す。四人がけ用のオーク調のダイニングテーブルには、シモンの煙草缶とジッポ、それから見慣れた紙袋が置かれていた。 「パン・オ・ショコラは?」  ゆっくりとそちらへ歩み寄り、紙袋の口を開けて香ばしい匂いを胸に留めてから訊いてみる。カタン、湯を注ぐ役目を終えたやかんがコンロに戻された。 「売り切れだった」  うんざりした音色を奏でたシモンに、ももはふっと頬を緩めた。  やがて、出来上がったコーヒーをテーブルに置いて、画家は煙草缶を手にアトリエへと向かった。  丘を一望できる窓からは、たっぷりと光が射し込んでいるのだろう。間仕切りの薄いリネンカーテンに大きな影が映る。ゆらり、ゆらり、水面に風がそよぐようにたゆたっては、沈まぬ船のごとく淡い光の中に存在している。  音はなく、ただ静謐な空気が辺りを包んでいた。気だるさとくすぶった高揚と、それから充足感と、ももはしっとりとした朝を抱きしめて席についた。カップになみなみ注がれたカフェ・アロンジェからは、香ばしい匂いが上がっていた。  それからも、彼女は絶えずアトリエに通った。次の日も、また次の日も、男はそれを予期していなかったのだろう。小麦色の丘に上がってきた女の顔を見るや端正な目元は崩れ、一切の動きが止まる様は、ひどく滑稽でならなかった。
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