第九話

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 夏の香りもすっかり空の向こうへと攫われ、小麦色の海がそよぐ真昼のこと。アトリエの床に画家の落とした絵の具のチューブを拾い集めて丘へ戻ると、一人の男の姿があった。 「相変わらずだ」  長い体躯をすっぽり包む外套に身をつつみ、頭に載せたハットを甲斐甲斐しく手にとりながらシモンの絵を眺めている。その横顔に見覚えがあった。  ボンジュール、と控えめに声をかけると、男は洗練された仕草で振り返った。 「これはいつぞやのお嬢さん」  端正な顔にしっとりとした笑みを浮かべ、コマン・サ・ヴァ?(ご機嫌いかがかな) と訊いてくる様は、どことなくマリー・アントワネットのような優雅さを感じさせる。  貴族階級の出自かと思いを巡らせながら、ももは、ジュ・ヴェ・ビアン・メルシー・エ・ヴ?(ええ。あなたは?) と常套句を返すと彼は笑みを深めた。 「シモンはいますか?」  男は訊ねる。 「ムシュー・ロンベールはちょうど、今、駅のほうまで買い物に」  以前、ももがここへ訪れるようになって間もないころも、彼は田舎町に不釣り合いな三揃いの背広に身を包み、仰々しいアタッシュケースを持って現れたことがあった。  ファーストネームで呼び合うことから懇意にしていることはわかったが、あの人を寄せつけない画家ど一体どのような仲なのかはジヴェルニーの青い風に消えたままだった。  社交界に君臨するような紳士と、アトリエに籠城した画家。それこそモンマルトルの丘で寂れたカフェのアブサンを傾けているのが似合うシモンと彼の間にあるものとはなんなのか。  それを考えるあまり顔に出ていたのだろう男はももの返答に顎を撫でると、それから外套の内側に手を突っ込んで名刺を取り出した。 「失礼、パリ一区で画廊をやっております、ジャン=クロード・ベルジュラックと申します」  いかにもフランスらしい名前に、ももはその名を反芻する。 「ムシュー・ベルジュラック」 「ええ」  たしか、そんな名前の騎士がいたような。彼はにっこり笑みを返す。 「ジャン=クロードで構いませんよ、マドモアゼル……」 「モモです。モモ・イガリ」 「マドモアゼル・モモ。可愛らしい名前だ」  ジャン=クロードの優美な笑みにどことなく居心地の悪さを感じながら、ももは彼の手をとってかすかに口元に半月を描いてみせた。 「ジャン=クロード、あなたはムシュー・ロンベールにどんな御用で?」  シルクハットを頭に載せる仕草ですら洗練されている。太陽を跳ね返す金糸は、シモンとはまるで真逆の存在だ。  パリの一区で画廊をしている、と言ったが、ともすると彼の生業は画商。しかも、一区といえばハイブランドの本店が軒並み集まる箇所だ。  高級な紙質のカードをちらりと一瞥すると、ジャン=クロードは淡いシャンパンブルーの瞳を細めて、カンヴァスに向き直った。 「君は、彼を知っているのかな?」  ももはそのまなざしの真意を探る。 「……知っている、とは?」 「シモン・ロンベールという男について、さ」  均整のとれた横顔、太陽に透ける羽の先にある瞳は、まっすぐ、イーゼルに立てられたシモンの絵画に向けられている。  小麦色に染まった丘、青い山、それから、白いテーブルセット。人影はないのに、どこか、人間の存在を感じさせる。  ももは男の問いに答えられない。男の筋ばった指先が灰がかった空に触れる。 「奴は、かつてある界隈で名の通った画家だった」  かすかに秋の香ばしさを載せて、風が吹く。彼の上質な外套のすそが、小麦色の海の中で揺らいでいる。 「モネの再来、現代印象派の寵児、神の眼を持ち、人々に見えないものを描く男——まあ、いろいろともてはやされたな」  ももは男の言葉に、手にしたカードを強く握りしめていた。 「……そんな方が、どうして」  ジャン=クロードの並べた美辞麗句がシモンのものだったならば、なるほどたしかに、彼が魔法の手でももの目を奪ったのも頷ける。だが、ももは彼の絵に、彼に惹かれたのが、それゆえのものではないと心のどこかで思っていた。  ももの問いに、ジャン=クロードは答えない。カンヴァスを触った指先を眺めて、それを親指とすり合わせると、ただ、眩しさをこらえるように目を細めて、「また来ます」と言った。
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