第九話

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 ジャン=クロードが去って、ももはジヴェルニーのクロード・モネ通りまで赴いた。バカンスシーズンも終わり、以前訪ねたときよりか観光客の数は落ち着いているようだった。モネの庭までは行かず、なごやかな空気の漂う往来を進む。それから、土産屋に挟まれた小さなギャラリーに足を踏み入れた。  夏に訪れたギャラリーとたしかに同じ場所ではあったが、もうすでに展覧会は別のものに変わっていた。灰色に染まったカンヴァスがないことに少しの寂寥感を感じつつ、ももはギャラリーを見て回った。モネを思わせる風景画が何枚も並んでいた。 「あの」  受付に座っていた女性に声をかける。ウィ(はい)、とにこやかに答えられて、一瞬たじろぎながら、ももはあることを訊ねた。 「シモン・ロンベールという画家をご存知ですか」  絵画の買い付けではないとわかり、女はかすかに落胆の色を見せる。 「その画家は知らないけれど、もしよかったら見ていって」そう愛想笑いを貼り付けた彼女は個展主ではなく、ただの雇われのスタッフだった。  次に、ももはジヴェルニーの奥まで進み、印象派美術館へ向かった。モネをはじめとする偉大な印象派画家たちの絵が展示されている。その道の人間たちには楽園とも言える場所だ。  ももは展示室には入らず、ミュージアムショップに立ち寄った。モネやシスレー、ジヴェルニーで活躍したアメリカ人画家たちのギフトを横目に、ももは書籍棚にかじりつく。印象派の歴史が綴られた本や、後世名を残した画家たちの伝記、あるいは作品集、日本ではなかなか目にかかれないだろう分厚く美しい装丁の本が並んでいた。その中から、「現代印象派批評」という本を手に取った。当然ながらフランス語で綴られたそれに、ももは苦戦する。  だが、ただ一心に、「Simon Lombers」という名を探した。 「ボンジュール」  必死でフランス語を流すももに声がかけられる。  顔を上げると、銀縁眼鏡をかけた白髪のマダムが立っていた。年の頃は自分の両親に近いか、それよりも上だろう、微笑をたたえた顔はとてもやわらかい印象で、まるでルノアールの絵画にでてきそうな雰囲気であった。 「なにかお困りかしら」  ももは唇を噛み締めて、彼女に打ち明ける。 「ムシュー・ロンベールを、シモン・ロンベールをご存知ですか」  強ばった声とは対照的に、女性は二、三瞳を瞬かせたあと、ええ、と口元に弧を描いた。 「素晴らしい画家だったわ。見る者の心を激しく揺さぶり、その名を永遠に刻みこむような。彼のカンヴァスに描かれた人間は、それはさぞ美しかったのよ」  印象派美術館から戻ると、シモンがイーゼルの前に立ち、絵筆を握っていた。 「どこへ行っていた」  目映いほどの日差しを溜め込んだ空に彼の低音はほどけていく。ももはその前に立ち、カンヴァス越しに男を見据えて答えた。 「印象派美術館に」 「そうか、目当てのものはあったのか」 「……ええ」  ぐっと奥歯を噛み締めて、それから、目を閉じてひとつ息を吐く。 「ねえ」  ももの呼びかけに、シモンは視線だけを寄越した。 「どうして、あなたは風景画しか描かないの?」  常と変わらず絵筆を握ったまま、彼はパレットの白をとりカンヴァスに載せていく。塗料が半乾きになって、仕上げを加えているのだろう。 「また、自分を描けとでも言うのか。十万ユーロ積むというなら、描いてやらなくもないぞ」  にべもない物言いに、ももは動じない。  なにも返さず、ただ、カンヴァスの向こうに覗く男の顔を見つめていた。グレーがかった癖毛が額の上で小刻みに揺れる。秀でた鼻梁に、深く窪んだ眼窩。 「そうじゃないの」  まっすぐ絵画に注がれていたまなざしがゆっくりとももを捉える。 「あなたは、とても素晴らしい、画家だったのに」  西へと渡る太陽が、いっそう強く射し込む。ヘーゼル色の瞳には、大きな影がかかっていた。
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