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第十話
目がさめると真っ白な世界だった。太陽にさらされた新しいカンヴァスのように、なににも染められていない、唯一の色。
「伊賀利さん、終わりましたよ」
それは絶望の色だった。
もはやパリの朝は凍てつくような寒さだった。まだ晩秋というにはさほど夏から遠のいていないというのに、真っ暗なアパルトマンで目を覚ますと、ももはありったけの洋服を着込んでやかんを火にかけた。
ほんの少しの水と、近くのスーパーで買ったティーパックを煮出し、いくらか色が滲んだらそこへ牛乳をそそぐ。朝はいつもなら、カフェ・オ・レを淹れるところだが、今日はミルクティーにした。膜が張らないように温度に注意しながら、ティースプーンでたっぷり砂糖を落とす。まったりと濃厚なミルクティー。
はふ、はふ、と冷まして、口にする。舌にはまだ熱かったが、凍てついたももの体を温めるにはちょうどよい。
絡みつくような喉の渇きと、一向に震えの止まらぬ指先をどうにか鎮めて、夜が明けたころにももはアパルトマンを出た。
列車の中で、ももは目映い光を心に宿さぬよう、昨日のことを思い起こした。
画商がやってきて、ももに落としていった、シモンの欠片のことだ。
今からおよそ二十年まえ、パリを中心に名を台頭させた若い画家がいた。
かの印象派画家を思わせる躍動的なタッチに、女神の口づけを落とすような繊細な色遣い。爆発的なグローバル化の時代、モダンアートはもちろん気鋭のユートピア的思考をとりいれた新興派などといった押し寄せる荒波をものともしない勢いがその画家にはあった。
それが、シモン・ロンベールという男だった。
彼が有名な画家であったことに、ももは内実さして驚いてはいなかった。むしろ、妙に納得したところがあったと言っていい。ただ、その欠片を拾いあげたとて、ももにとってシモン・ロンベールという男を知るには及ばなかった。
シモンの絵画には、写実性よりも強い神秘的ななにかがある。
目に映る景色や、肌や嗅覚、聴覚で感ずるその一瞬の美しさを絵筆に留める多くの画家たちと一見して共通しているようにも思えるが、ももには似て非なる唯一のものだと認識していた。
全盛期と言われるころの作品は、個人所蔵が多いからかネットで探しても閲覧することはかなわなかったが、彼の描いた絵はモネよりも、マネよりも、ゴッホやルノアール、あるいはピカソやゴダールよりも、ももの胸を震わせるのとはたしかだった。それらの画家よりもシモンの絵画が優れているかどうかは別として、いわば彼女にとって彼は『特別』。芸術は、いつだって主観的だ。
なぜ彼の絵画に惹かれたのか。なぜ、シモン・ロンベールという画家に魅せられたのか。
西陽の強く射す、目映い丘。光を集め瞬く髪や頬、精悍なまなざし。窪んだ目元には影が差して、一心不乱に、一瞬の風をも愛撫するかのような熱く繊細な指先を動かす。芸術など深くわからない、だが、たしかにそれこそが芸術だと思った。そして、形容しがたい、心の揺さぶりを感じた。
彼の絵画には光があふれていた。彼自身もまた光に包まれていた。ならば、光に焦がれたというのか。——ちがう。
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