第十話

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 がたん、ごとん、列車の揺れに、右肩に冷ややかな感触があたる。滔々と、シモンに、あの問いをぶつけたあとのことが蘇る。 「あの画商か」  ひと呼吸おいて、一瞬の静寂を裂いた声にももは息を飲んだ。 「……あなたが来る前に、ここに来たわ」 「そうか。またどうせ絵を売れとかいう脅しだろう」  視線を外し、シモンは再び絵画に集中する。先ほどの問いなど意に介していないような装いだった。あるいは、それ以上の追随を許さぬ拒絶の表れか。 「また来る、そう言ってた」  ももは男の過去について追及するのを辞した。そのかわり、その男のうしろに回り、彼の絵を眺めた。  シモンは彼女に一瞥を送ったようだが、すぐにまたまっすぐ視線を戻し、絵筆に神経を集中させた。  青々とした山岳風景に白いテーブルセット、そこへ、黄色い鮮やかな草が生い茂る。テーブルセットなどここにはないが、きっとこの丘の風景なのだろう。鮮やかな植物に自然と目がいく。太陽に染まった、豊かさの象徴。  だが、ももはそこでハッとしたのだ。  シモンの横顔を窺い見る。  陽が射して、張り出た額が金色に縁取られている。眼窩(がんか)は深く、影を纏い——そうだ。  光あるところに影が生まれるように、影があるところに光がある。  ももは絵画に目を戻した。  黄色い海、白いテーブルセット、そして、闇色を孕んだ山々。皮膚が粟立つ。指先がチリチリする。  ももはそのに見入っていた。  ヴェルノンの駅について、ももはいつものルーティンを重ねた。どこよりも早く開いているブーランジェリーに立ち寄って、焼きたてのクロワッサンとパン・オ・ショコラを購入する。川沿いの市場で平桃を手に入れたあとはクレマンソー橋を渡った。  丘に着く頃には山間から目映い朝の陽射しが注いでいた。まだ街が動き出したばかりの時間帯だったが、どうやら画家の朝も早かったらしい。すでにイーゼルを立てて、洗われた朝陽の中にシモンが佇んでいた。 「ボンジュール」  声をかけると、シモンはやおら顔をあげた。その手には、巻きたばこが握られている。素早くまばたきをしたようだったが、常の仕草でたばこを吸って、「ボンジュール」と彼もまたあいさつを返してきた。  画家の立つ場所は、まさにこの丘の特等席であった。朝露の豊かな海の間、まだ汚れの知らぬ陽光を浴びている。風がそよぎ、セーヌからの青々とした豊かな香りを運んでくる。まるで、舞台のスポットライトが当たったかのような場所だ。だが、シモンがそこに立つと、すべてが一転した。  夜の気怠さと陰鬱さを孕んだ立ち姿、目映い光を疎ましそうに、だがどこか慈しむように伏せられた瞳。動作ひとつひとつが緩慢で、泰然としていて、静かな水面に浮かぶ木の船みたいだった。きっとその湖は底が深く、それでいて水は青々としているのだろう。鬱蒼とした森の中で、何人も寄せ付けない。  ももにとっては、静謐な、唯一無二の場所であった。
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