第十話

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 シモンが下塗りを施したカンヴァスに筆を入れていく間、ももはキッチンでコーヒーを淹れた。シモンの顔を見たら、クロワッサンをたべたくなったのだ。パン・オ・ショコラは男の嗜好品なので、食べたら文句が飛んでくる。あたたかなコーヒーに、軽やかな食感を残したままのできたてのクロワッサン。バターを軽くのせて、コーヒーに浸して食べる。パリっ子がよくやるクロワッサンの食べ方だった。  朝食を終えてからは、アトリエのシモンの絵画を眺めた。乱雑に重ねられたカンヴァスや、立てかけられたそれを、鑑定士にでもなった心地で壊さぬように気をつけながら一枚一枚手に取る。なにげない風景でも、どこにでもあるような川辺の姿でも、シモンの手でカンヴァスに切り取られたそれは、至極美しい。  寝室に、あるいはリビングや玄関に、彼の絵が飾られたらどんな心地だろう。今までこんなことを考えたことはなかったが、朝起きて、ぼうっとその風や、音、匂い、そして光に想いを馳せる。家を出るときに、ふとした瞬間に、彼の絵に祈る。考えただけで、胸が熱くなった。やはり、ももにとってこのアトリエは宝の山だった。  途中、昔の絵がないかと探してもみたが、見事に有名画家の過去の残滓は見当たらなかった。  しばらく空想と現実の狭間を満喫して、散らかったシモン・ロンベールの城を出ると、どこからか、にゃあ、という鳴き声が聞こえてきた。 「ねこ……」  イーゼルに向かって仁王立ちをするシモンの足元に、ブラウンタビーの猫がすり寄っている。 「野良猫?」 「さあな。普段は人間がいると寄ってこないが、どうやら屈服したらしい」  シモンはその人間が誰かを指さなかったが、まちがいなくそこに自分が含まれるだろうと確信した。長い体躯を屈めて、煙草を持たぬほうの手でにゃあんと甘く喉を鳴らす猫を撫でる。妙に慣れた手つきだった。 「猫、好きなのね」  心なしか彼の纏うものが緩んだ気がして、その一人と一匹の姿を眺めてももは呟く。  意外にも、返事がかえってきた。 「ああ。パリに居たときはシャルトリューを飼っていた」  シャルトリュー種、たしか、かのシャルル・ド・ゴールも愛したという国産の猫だったか。だがそれより、パリに居たとき、そう男の口から自らの過去について語られたことにももは気を取られていた。  なにか言いたげなももに、男はたばこを口に咥えて言う。 「パリは窮屈だろう」  彼の手はいまだ猫の顎を撫でたままだ。 「……ええ」ももは迷うそぶりも見せず、静かに言った。昔ならばそんなことがあるはずもないと、口答えしていただろうに。  やがて、猫は男のその手に満足したのか、丘を下りて行った。
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