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それからほどなく、戸外制作を休止して、アトリエに入った。塗料だらけの作業台の上で、シモンは巻きたばこを巻いている。いつもは日に一、二本、吸うか吸わないかというところなのに、今日はやけに本数が多い。もしかすると、ももが知らないだけで、日ごろ就寝前などに何本もふかしているのかもしれない。
「きみ、芸術をかじったことは?」
そんな彼に背を向けて、ももは無造作に放られたカンヴァスの山を切り崩していた。だしぬけに訊ねられて、彼女は、「まったく。学生時代、展覧会に行ったきり」と姿勢を変えずに答える。
先ほども同じようにカンヴァスを漁っていたが、今度は探る意図はなしに、ただ純粋な眼で彼の絵画を一枚一枚眺めていた。
「そうか、それは人生を損しているな」
色を孕んだ声に、ももはシモンを振り返った。
タバコを巻き終えたのか、口に咥えて火をつけている。カチ、カチ、ライターが爆ぜ、巻紙が燃える。額にかかった髪を軽くふって払いながら深く息を吸うと、長い指先に挟んで煙を吐き出した。
脚を組み、机に肘をつきながらたばこを嗜むその姿は、隠居生活のモネというよりかは、一九二〇年代絢爛のパリでショットグラスを傾けるヘミングウェイに見えなくもない。
「そうね」
ももは軽く微苦笑を浮かべながら肩をすくめる。
「もっと芸術について学んでおけばよかった、って今は思う」
小中高、と図工や美術の授業を受けてはきたが、それらはももの人生になんの影響も及ぼさなかった。空白の時間であり、空白の経験。もしかしたらどこかに培われているのかもしれないが、生きた芸術にやっとのことふれた今では、なぜもっと早くにこの感動を見つけなかったのだろうと思う。
「日本人は世界屈指のアート好きだと聞いたことがあるが、君は多分に漏れたようだな」
「どうかしらね」
ももは、そばにあったカンヴァスのふちをなぞった。
たしかに、日本にはそこかしこに美術館があり、小さな画廊も含めると街にはアートを展示する場は溢れている。だが、真の意味で芸術を好み、日本人の多くがそれらを愛しているかというとまたそれは別の話だ。
「定期的に有名画家の展覧会は催されてるし、盛況してる。でも、たいていの日本人は、自分の家に絵画を飾りたいとは思わないもの」
フランス人にとって、あるいはヨーロッパ諸国の人々にとって、アートは生活の一部であり、人生に欠かせないもののひとつでもある。彼らの、絵画をはじめとする芸術全般への理解と造詣の深さにはたびたび驚かされたものだ。彼らは芸術を友として受け入れている。
対して、ももたち日本人にとっては、芸術とは高尚な、それでいて権利と富の象徴であり、はたまた理解しがたいもののひとつであった。それゆえ、ももは油絵の具がどういうものかも、テレピン油がどんな匂いがするのかも知り得なかったし、画家たちがどんな姿勢で製作を行なっているのかも、彼女の想像には上ることはなかった。
「教養として、画家たちの名前は知ってる。絵も見たこともある。ゴッホのひまわりが来日した際に見に行ったときは、たしかに、すごいな、と思った。けれど、それはあくまでゴッホの絵だったから」
シモンは、そうか、とも、気の毒だ、とも言わずに煙草に口をつける。ももはもは気にも留めず、立てかけられていたカンヴァスのうち、指先で辿った先の一枚を手にしてシモンの斜め前の椅子に腰掛けた。
「この絵、とっても好き」
雨のヴェルノンの街並みだった。滲んだ青い世界に、灯火が揺らいでいる。シモンが雨のヴェールをたぐり、もものもとに飛び込んできた日に描いていた絵だった。
「寝室に飾りたい」
「君を描いて欲しかったんじゃないのか」
「……描いてくれるならそっちにするわ」
「十万ユーロを積んでから言うんだな」
男の冷笑にももは小さく目を回した。
「あなたは、モネが好きだからジヴェルニーに?」
お気に入りのカンヴァスの凹凸をなぞりながら訊ねると、どうだかな、と彼は灰を落とした。
「だが、実際モネは素晴らしいぞ。彼は心から描くことを愛していた。彼の絵は幸福に満ち、また、カンヴァスを前にした彼自身の高揚を、遥かなる時を越えて尚、我々に突きつけてくる」
珍しく饒舌だ。いつもの陰鬱で、厭世的なしゃべり方とはちがい、格段熱のこもったそれにももは口元を緩める。
ひと息に言いきって、たばこを深く吸ったあと、シモンは自分の吐き出した紫煙を見つめるように天井を仰いだ。こつこつ、空いたほうの手を、軽く机に打ちつけていた。
「君の好きな画家は」
彼の尖った喉仏や、髭の伸びた顎、それから、かさついた唇に秀でた鼻梁と窪んだ目元。それらを瞳で模りながらももは言う。
「あなたよ」
シモンは動きをとめ、目だけでももを追った。
「モネよりも、ゴッホよりも、ルノアールよりもピカソよりも、あなたの描く絵が好き」
「……比べる対象がてんでバラバラだな」
やれやれとたばこを押しつぶした男に、堪えきれず笑みをこぼすももであった。
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