第十話

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 しばらくしてからシモンは立ち上がり、小さな木箱の上に丸めてあった画布を広げて木枠に張り始めた。  ときおり見かける光景だったが、ももは静かにそれに見入った。精悍なシモンの横顔、よれたカーディガンからのぞく逞しい腕。力がこめられるたびに、血管が浮き上がり、シモンの男らしさが表れる。普段の繊細な手つきはそのままだが、それでも、その仕草は新鮮だった。  水面に浮かんだ船の上に、彼女も一緒に乗っている。静寂な湖畔で、霧がかった辺りを進むことなく、その場にただたゆたっている。  カン、カン、と軽やかな音をたてて、タックスを埋め込んだシモンは、画布にたるみがないかを確認するとももの声をかけた。 「君ならなにから(えが)く?」  ハッと思惑の船に横たえていた身を起こす。 「そんなこと、急に言われても」 「頭が堅いな。なんでもいい、自由に考えろ」  そう言って、シモンは自ら張ったカンヴァスをももの目の前の壁に立てかけた。  真っ新なカンヴァスがももの目を灼く。  ひとつのシミもない、目映くて、力強くて、昨晩見た光景に、そっくりな色だった。  ——伊賀利さん、終わりましたよ  突如目の前にヴェールがかかる。  耳はふさがり、周りの音が消える。それだのに、脳にさまざまな声が蘇る。  ——妊娠一ヶ月です  ——もも、結婚しよう  ——心音もしっかりしてますし、順調ですよ  ——女の子やったらええな  ——妊娠二ヶ月、うん、いいですね  ——彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで  ——妊娠四ヶ月、あと少し、安定期までがんばりましょうね  ——ちょお、不安なって。ほんまに出来心やった  ——伊賀利さん、残念ですが  眩しい、やめて。その色は嫌いなの。  ももはカンヴァスを見つめたまま、その汚れなき白に飲み込まれていく。全身が冷え、指先から感覚が失われる。  いやだ、おねがい、苦しい、苦しい、苦しい——! 「ーーおい!」  光の海に、影が落ちた。  ハッと瞬くと、シモンがこちらを覗き込んでいた。  シモンの色の濃く重い影が、ちかちかと目を切り裂く真白のヴェールを引き上げる。 「どうした、顔が真っ青だ」  唇が震える。カチり、歯かぶつかって不愉快な音を奏でる。 「夢を、見たの」  小刻みに痙攣する指先を必死に握って、ももは紡ぐ。 「悪夢か」  小馬鹿にするように息をついたシモンだったが、その顔はぴくりとも笑っていなかった。 「……す、夢を」  声を掠れさせたももに、シモンは、「なに?」と耳を寄せた。 「子どもを、殺したときの夢を」
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