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しばらくしてからシモンは立ち上がり、小さな木箱の上に丸めてあった画布を広げて木枠に張り始めた。
ときおり見かける光景だったが、ももは静かにそれに見入った。精悍なシモンの横顔、よれたカーディガンからのぞく逞しい腕。力がこめられるたびに、血管が浮き上がり、シモンの男らしさが表れる。普段の繊細な手つきはそのままだが、それでも、その仕草は新鮮だった。
水面に浮かんだ船の上に、彼女も一緒に乗っている。静寂な湖畔で、霧がかった辺りを進むことなく、その場にただたゆたっている。
カン、カン、と軽やかな音をたてて、タックスを埋め込んだシモンは、画布にたるみがないかを確認するとももの声をかけた。
「君ならなにから描く?」
ハッと思惑の船に横たえていた身を起こす。
「そんなこと、急に言われても」
「頭が堅いな。なんでもいい、自由に考えろ」
そう言って、シモンは自ら張ったカンヴァスをももの目の前の壁に立てかけた。
真っ新なカンヴァスがももの目を灼く。
ひとつのシミもない、目映くて、力強くて、昨晩見た光景に、そっくりな色だった。
——伊賀利さん、終わりましたよ
突如目の前にヴェールがかかる。
耳はふさがり、周りの音が消える。それだのに、脳にさまざまな声が蘇る。
——妊娠一ヶ月です
——もも、結婚しよう
——心音もしっかりしてますし、順調ですよ
——女の子やったらええな
——妊娠二ヶ月、うん、いいですね
——彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで
——妊娠四ヶ月、あと少し、安定期までがんばりましょうね
——ちょお、不安なって。ほんまに出来心やった
——伊賀利さん、残念ですが
眩しい、やめて。その色は嫌いなの。
ももはカンヴァスを見つめたまま、その汚れなき白に飲み込まれていく。全身が冷え、指先から感覚が失われる。
いやだ、おねがい、苦しい、苦しい、苦しい——!
「ーーおい!」
光の海に、影が落ちた。
ハッと瞬くと、シモンがこちらを覗き込んでいた。
シモンの色の濃く重い影が、ちかちかと目を切り裂く真白のヴェールを引き上げる。
「どうした、顔が真っ青だ」
唇が震える。カチり、歯かぶつかって不愉快な音を奏でる。
「夢を、見たの」
小刻みに痙攣する指先を必死に握って、ももは紡ぐ。
「悪夢か」
小馬鹿にするように息をついたシモンだったが、その顔はぴくりとも笑っていなかった。
「……す、夢を」
声を掠れさせたももに、シモンは、「なに?」と耳を寄せた。
「子どもを、殺したときの夢を」
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