第十話

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 言葉にした途端、どっと空気の塊が口から入り込んでくるのを感じた。喉をつかえ、うまく呼吸ができなくなる。どうにか酸素を得ようと喘ぐが、ひゅう、ひゅう、不格好な音が繰り返すばかり。  過呼吸を起こしたももの額に、シモンが手のひらをかざした。 「ゆっくり、息を吐くんだ」  視界が暗くなる。なにもかもから遠ざけ、すべての光を遮る手のひらは、ひどく熱い。  ももは、ごくりと唾を飲み込んで、シモンの手に身を委ねる。 「そう、そうだ。うまいぞ」  呼吸が落ち着くまで、シモンはずっとそうしてくれた。  冷静を取り戻したももに、シモンはカフェ・オ・レを淹れてくれた。  先ほどまでの、熱のこもったとまでは言わないが、ろうの上で揺らぐ灯火のように続いていた会話はすっかり途切れていた。常の、粛々としたアトリエに戻っている。ももの耳に届くのは、やかんの底で火が爆ぜる音と、それから、沸いた湯がカップに注がれる音のみ。 「ほら」  シモンが湯気の立つカップをももの前に置く。ありがとう、と小さく呟き、ももはそのカップの中を見つめた。  クリーム色のそこにぼんやり影がうつる。すっかり憔悴しきっていた。夏には顎先で切りそろえてあった髪が彼女の頬を覆い、鎖骨に垂れている。  シモンはひとつも訊ねない、それどころか彼女を観察することもせず、自分用にインスタントコーヒーに湯を注いでいるようだった。  こぽこぽ、またしても音が響く。カタン、コンロにやかんが戻される音がする。それから、ドリップパックを捨てる音も。  そのどれもが、彼女をこの空間にとどめてくれるようで、ももは、かさついた唇を噛む。 「わたし、自分の子どもを殺したの」  これこそ本当の罪の告白であった。カフェ・オ・レからは、湯気がくゆっている。  今からおよそ一年前のことだ。ももは都内の私立高校に勤める英語教諭だった。大学卒業とともに始めた仕事は、正直苦労のほうが多かったが、その分得られるものも大きくやりがいち満ちていた。  働きだして、四年。その春に卒業生を送りだした初夏のこと。やっとのこと教師として一人前になれたかというタイミングで、ももは当時付き合っていた恋人の子どもを妊娠した。学生時代から、かれこれ五年はともに過ごしたパートナーとの子どもだった。本来ならば授かったことを大いに喜んだことだろう。たしかに、ももは自分の胎内に生命を宿したとき、言いようのない感動を知った。子を産むのだと、涙した。  ただ、最悪なタイミングだった。  彼の裏切りが発覚し、将来を見据えて、別れようと思った矢先のできごとだったのだ。ももの精神は、すり切れた雑巾のようにボロボロだった。  それでも、彼が結婚しようと子の父になる覚悟を固めてくれたことで、ももは堕胎手術を受ける道を塞ぎ、産む決心をした。  二ヶ月、三ヶ月、順調だったように思えた。だが……。  ももは、きつく、唇を噛みしめる。 「何度も、何度も続くパートナーの裏切りに耐えられなかった。職場の重圧にも、家族や友人からの憐れみにも。わたし、逃げたの」  そして、ある晴れた秋のこと。 「お腹が張るなと思ったら、大量に血が出てた。病院に行っても、すでにそのときには手遅れだった。気がついたら白い部屋にいたの。無機質で、眩しくて、暖房がかかっているはずだったのに、ひどく冷ややかだった」  今でも、そのときの感覚を忘れない。十数えるうちに遠のいた意識、目が覚めたときには全てが白紙に戻り、彼女は独り凍えていた。 「それは、殺したとは言わない」  シモンは言った。  ももは髪を乱し、強くかぶりを振った。 「救急車を呼べば、まだきっと助かったのよ。でも、わたしはそうしなかった。そのまま何もなかったように過ごしたの、何時間もね。仕事が終わって、それから、自力で病院まで行ったわ」  そうだ、そのときだ。すべて楽になるかもしれない、と思ったのは。  ウェッジウッドブルーのカップのふちが滲む。ひとすじ、涙が溢れたのを拭い、ももは顔を上げた。それから、背後にたたずむシモンを振り返り、ぎこちなく頬を動かした。 「ごめんなさい、こんな話をして。今日はお暇するわね。ジヴェルニーに宿をとって、おいしいものでも食べようかな。どこか、いいところ、知ってる? パリに帰るのも、億劫だから」  携帯を取り出したももの手を、シモンは掴んだ。  そして、抜け殻のように彼を見上げるももの唇を奪った。
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