第十一話

1/5

107人が本棚に入れています
本棚に追加
/90ページ

第十一話

 その日、ももはシモンのアトリエに泊まることになった。  自らの傷を打ち明けたことで、ももはその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、変わらずシモンはなにも彼女に問うことをせず、静閑とした湖畔にたゆたう船となり、行き場を失い水底に沈みゆくももを引き留めた。  秋のしめやかな空気の中、向かい合って昼食を摂り、午後はアトリエで過ごした。シモンがひたすら描き続けるのをももが眺める、すでにそこにはいつもと変わらぬ日常が重なっていた。男の顔からはあらゆる感情が削ぎ落とされていて、憐憫の色も阿諛(あゆ)するそぶりも、あるいは、斟酌(しんしゃく)することさえそこには窺えなかった。だが、それがかえって、ももを苦しみの果てから解放した。  感情を無理に引き出させず、自らを偽ることもない。なにものでもない、それこそ、という自身のアイデンティティすらを傍へ置き去った状態で、シモンの生み出す芸術(アート)に没入することができた。いや、没入とまではいかないかもしれない。たしかにももの意識はあったが、彼女のもとにきちんとあったかは、不明だったからだ。  静穏な午後を過ごしたあとは、古びた電球のもと夕食を摂った。テレビもない、互いのカトラリーの音が支配する世界の中で、レンズ豆のスープにラザニアを。缶詰と冷凍食品というどちらも加工食品ではあったが、さすがは美食の国ともあってか、その味は案外悪くはなかった。  夕食後は、シモンは夜風に髪を靡かせて煙草を、ももはその隙にシャワーを浴びた。着替えなどなかったので、乱暴に突きつけられた男の大きなシャツとリネンのボトムスを借り、下着は仕方なしに洗って、ストーブの風でできるところまで乾かしてから身に着けた。 「まるで、子どもだな」  余った袖と太ももの中ほどまで伸びた裾、それから、だぼだぼのスラックスを引きずるももを見てシモンは鼻で笑った。恥ずかしくなって気難しく顔を歪めると、シモンは頬にかかった彼女の髪をよけて細い腕をひっぱった。そして、いともたやすく男の胸に飛び込んだ彼女を、それこそ子どもを抱くようにかかえて、寝室まで連れて行った。  城の最深部入るのは、二度目だった。大きなベッドに落とされ、身をこわばらせ瞑目するももに、男は一切触れてこなかった。  ギィ、とスプリングが軋む音がする。やがて、隣に訪れた重みにベッドが沈み、かすかに、煙草と、それから油の匂いが掠める。ももはおそるおそる目を開けた。 「寝ろ」  あまりにもすげない言い様だった。月明かりに浮かぶ顔も、寝入りに見せる父の優しい顔などとはほど遠い。無表情な男のあまりに不器用な優しさに、ももは笑わずにいられなかった。ふっと吹き出したももをシモンは怪訝そうに横目でじろりと一瞥する。だが、ついぞその瞳に込められた文句を口に並べることはしなかった。 「おやすみなさい」  ひとしきり笑って、ももはシーツの海にもぐりこんだ。寒さに引き締まった空気との温度差が心地よい。目を閉じると、彼女の頭蓋を大きな手が撫でた。あたたかくて、無骨で、ひどくやさしい。  ももはその夜、吸い込まれるように、眠りについた。
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加