第十一話

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 不必要に物音をたてぬよう、湯を沸かす。いつもより何倍も気をつけたが、それでもやはり、パリのアパルトマンより何倍も古いこの小屋では音が響いてしまう。  ももは、流しの上の出窓に置かれたインスタントのコーヒー缶だけ台におろしておくと、アトリエへ移動した。  薄いリネンのカーテンを捲ると、光の中に包まれた。西陽とは違って、灼きつけるほどの痛みはない。まるでミルクを注ぐように窓から溢れる朝陽に、作業台のテレピン油や、チューブ、それからパレットナイフが輝いている。昨日よりも鮮やかに、そして華やかに。赤や青、緑や橙、紫に、黄色、あらゆる色彩がそこかしこでこぼれて、七色に光を放つ。  土と水と緑の豊かなセーヌの香りに、テレピン油の匂い、それから、スンと鼻の奥にこびりつくような埃っぽさ。思わず、いっぱいに息を吸い込んで、握った拳をぎゅっと胸に抱く。  どれほどそうしていただろうか。カタリ、床板が軋む音がして、ももは振り返った。  寝癖も直さず、宵を孕んだ装いのシモンが立っていた。  じい、とこちらを見つめて、微動だにしない。  これじゃあ、まるで、いつもと立場が逆じゃないか。ももはおかしくなって、立ち尽くしたままの男に、「おはよう」と微笑んだ。  この日を境に、ももは日が暮れて鬱蒼とした気持ちでパリへの特急列車に飛び乗ることはなくなった。  男と出会ってから、約二ヶ月。夏から秋、そして、季節は冬へと移り変わろうとしていた。
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