第十一話

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 ジヴェルニーで暮らすようになったとはいえ、ももの生活は基本的にはさほど変わらない。  朝起きて、コーヒーを飲み、室内を軽く掃除してからブーランジェリーにパンを買いに出る。丘に戻ったころにはシモンも起きていて、パン・オ・ショコラ片手に新聞を読む男の前で、自分もクロワッサンをかじるのが毎日の風景だ。日中は制作を眺め、ときおり買い物に出たり、散歩をしたり。食生活を鑑みて、夕食はももが作ることもあった。  本当は、あの日、夜が明けてしばらくしたらパリに戻るつもりだった。だが、所在なさげに外を見遣るももに、シモンは、「好きにすればいい」と言ったのだ。なにを、とは言わないのは、彼の意地の悪さだったか、それとも、優しさだったか。  ともかく、その言葉を鵜呑みにして始まった同居生活は、大きな波はないがそのぶんひどく心地がよく、すっかりももの中に溶け込んでいた。  晴れた日の午後、ももは原っぱに腰を下ろしてシモンの制作を見守った。  朝と夜は冬の東京ほどの寒さだが、陽が射した日中はまだあたたかい。ただ、それでも上に厚手のニットを羽織っていてのこと。北部の季節の移り変わりの早さには舌を巻かざるを得ない。  ヴェルノンのブティックで購入したウールのニットに身を包んで、ももはいわゆる体育座りで一心にシモンの手元を見つめていた。  彼はセーヌ河畔を描いていた。前にも、雨くゆる朝に彼がその絵を描いていたのを忘れもしない。  悠然と流れる翡翠の川、その向こうには喧騒とは無縁そうなヴェルノンの街並み。ほとんど同じ構図だった。だが、たしかに違うのは、青く滲むセーヌの風景だったのが、今度は橙に染まっているというところだ。  熟れたオレンジをそのまま塗りたくったような色だった。手前を走るセーヌまでもがその鮮やかな色彩を載せ、燦然と輝きを放っている。  だが、それとは対照的に画面上部の建物群は暗く霞み、左には黒々とした木が植っていた。  ごくり、ももは喉を鳴らした。  シモン・ロンベールという男の描く絵は、ただ光の美しさだけでは終わらない。  光と影のアンバランスにほど近い絶妙な調和、あるいは、光と闇の共存。  目映く照らされた男の目元に落ちる影のごとく、光の中に色濃い影が存在している。そしてその影こそが、ももの胸に深く刻まれた傷に溶け込んでいく。
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