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ふと、モネの庭を見に行った帰り、立ち寄ったギャラリーで出会った一枚の絵画を思い出した。
光と名付けられたねずみ色のカンヴァス。ひと目見た印象では光とはほど遠い絵画だった。なぜそのタイトルを付けたのか、釈然としないももを、その絵画の作者は軽やかに笑った。だが、今思えば、たしかに、そこには影があり、光があった。一面のグレーにぽつりと浮かんだ鮮やかな彩色、それこそが光であった。
光とは影があることでその目映さをくっきりと映し出すことができる。また、逆もしかり。光の存在こそが影を生み出し、影が光をつくる。
シモンの絵が、シモン・ロンベールという画家が、なぜこうも彼女の目を奪うのか。
それは、彼が抱いた影にこそ理由があるのかもしれない。
ももは漠然と思った。若くして名を馳せた画家が味わった、苦渋、悲哀、そして、絶望。芸術を通して密かに訴えかけてくるそれらに、自分は共鳴しているのではないかと。
だが、もはやそれだけで語ることのできない境地まできてしまった、とも彼女は思った。
ももは、シモンを眺める。
シモンは常のとおり、彼女の様子を気にかけるそぶりもない。ただひたすら豚毛を握り、太く逞しい腕を繊細に動かしていく。
そこに向けられた瞳はひどく熱く、カンヴァスを右から左へ、あるいは、左から、右へまるでレースを撫でるように渡っては、もものヴェールをすべて取り去り熟した傷口を探り当てていく。
シモンは光を纏っていた。透き通る髪、金色に染まった頬、それから、七色に移り変わる虹彩。だが、彼の窪んだ目元はたしかに翳りを滲ませていた。
彼こそが光を際立たせる影であったのだ。
はげしく血潮がめぐる。呼吸が荒く、浅くなる。
ああ、そうだ。あのときもこうして。
ひとは、芸術の力には抗えない。
ただ心が揺さぶられ、もはや抉られるといっても過言ではない強さで、勢いよく鼓動が刻まれていく。
いつまでも、その絵を眺めていたい、ただその絵の中で生きていたい。感情ではない衝動に突き動かされる。
——それでいいんです。
あの青年画家の声が耳の裏でそよぐ。
昂る胸に身を委ねて、ももは思った。
はたして、この心の揺さぶりを、なんと喩えたらいいのだろう。
いまだ、その答えを手にすることはできていない。
風は、十分に冬の香りを載せていた。
無情にも、滞在期限まで刻一刻と時は迫っていた。
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