第十二話

2/3

107人が本棚に入れています
本棚に追加
/90ページ
 細雨が降る中、シモンがももを連れて行ったのは裏手にある森林だった。枯れ葉の絨毯を踏みしめ、樹々の合間を進んでいく。このまま奥に進めば、ヴェルノンの森に入っていくだろう。  霧だつ森は雨の匂いに満ちていた。丘で感じていたものよりもはるかに強い。それに、樹々や土の香りがいっそう豊かだった。  雨が葉を打つ音と、自分たちが枯れ葉や枝を踏み締める音が辺りを占めている。  なにをしにいくのかはわからない。だが、ももは透明のビニール傘をさして、ズンズン進みゆくシモンの背中を追いかけた。  しばらくして、少々開けた場所にたどり着くと、シモンは足を緩めた。 「ここは……」  辺りを見渡して、ももは呟いた。 「なんでもない、ただの森だ」  出不精の男が出かけるのだから、なにか特別なことでも起こるのではないかと心のどこかで期待していたらしい。シモンのその返答を聞いて、ももはひとつ息をついた。  大きな切り株があるだけで、そこにはなにもない。もちろん森だからマロニエやブナなどの立派な樹々が並び、空からの光を遮っている。厚手のタイツの上からは茂った草が脚をくすぐり、頭上からはときおり、野鳥のさえずりが落ちてはくるが、彼ら以外の存在ははるか遠い。頬をなぞる空気は冷たく、吐く息はかすかに白かった。  ももは、この森を知っている気がした。白くくゆる、深閑とした森。しん、と重い沈黙はむやみやたらに立ち入る者を拒み、迷い込んだ者を深部へと誘う。神獣はここにはいないが、小鹿に扮した精霊が今にも現れそうな雰囲気は醸し出している。神秘的静謐(せいひつ)、まさにその他ならない。  案内人はなにをするわけでもなく、コートのポケットに手を入れて森を見渡していた。  つゆの滴る葉や、湿った苔、幹の隙間に生えたきのこや揺れる枝葉。精悍な面差しは、絵画に向けられるものとは違えど、自然の営みを前にどこか丸みを帯びているようにも見える。 「いい匂いだろう」  茫然と森を眺めていたももに、彼は問うた。 「豊かな大地の香りだ。濡れた土に、熟した葉、潤んだ幹には苔が茂り、つゆを載せたくもの糸が楽園へと伝っていく」  ももは自然と目を閉じていた。まぶたの裏に鮮やかな世界が描き出されていく。青々とした、美しく(くゆ)る森。つい数秒前までももが見ていたものと同じはずなのに、シモンの声によって創り出されるそれは、魂が行き着く至上の場所のようにも思える。  やがて、小さな女の子が現れた。十歳にも満たない、あどけなさの残る少女だ。それはまさに自分だった。  濃霧に包まれた森の中に立っている。自分よりもはるかに背の高いブナの木を懸命に見上げ、ただ、長いまつ毛を揺らしては、その瞳をきらきらと輝かせている。 「ももちゃん」「伊賀利さん」「伊賀利先生」「もも」彼女を呼ぶ声になにひとつ答えず、心の赴くままに、この瞬間を味わっている。 「美しいな」  ああ、自分は、今彼と同じ景色を眺めている。同じ風を浴び、同じ匂いを嗅ぎ、同じ温度を感じている。なんて豊かな森なのだろう。  ももは大きく深呼吸をした。そして、言いようのない感動を胸に抱きしめた。  与えられた質問に答える必要も、のしかかる期待に無理に応えることや、聞き分けのいい伊賀利ももとして責任を負うこともない。苦しみや悲しみ、孤独や絶望に蓋をして、甲冑を纏う必要もない。なんて、美しい世界だ。
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加