第十二話

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「おい」  大地を踏みしめる音がして、ももは目を開く。シモンはそれを確認すると、顎をしゃくった。  ひときわ大きなブナのそばに、茂みがある。彼はぬかるみに足を突っ込むのもいとわずにそこへ近寄る、おもむろに手を伸ばした。彼女もそろりと後ろへつく。真っ赤な野いちごがあった。 「バライチゴだな」 「バライチゴ?」 「ああ、花がバラに似ているんだ。夏から秋にかけてその実を成熟させる」  一ユーロ硬貨ほどの丸々とした熟した果実は、見た目はラズベリーに近い。  シモンはいくつか成ったうちのひとつをもぎって、口に含む。 「おいしい?」  ももは訊ねるが、シモンが言葉を返すことはない。  酸っぱいのか甘いのか、表情すら変えずにシモンはふたたびバライチゴに手を伸ばすと、それをもうひとつもぎって、ももの口元へ運んだ。 「食べてみたらいい」  ひやり、押し当てられた果実に、鼓動が跳ねる。真っ赤に熟れたそれを無骨な指がつまんで、あまつさえ、女に食べさせようとするなんて。背徳的なその行為に、ももは熱い吐息を堪えておそるおそる口を開いた。  二本の指の間からそっと唇でそれを抜きとって、舌の上に転がす。だが、同時にカサついた男の指の腹まで感じ、ももはきゅっと瞳を閉じた。  一瞬のことだ。だが、永遠にも思えた。そんな、背すじが震えるような劣情をひた隠して果実をつぶす。 「ん、甘い」  想像していた酸味は訪れなかった。世間一般の苺よりも味自体はさっぱりしていて、舌の上で広がるのはほどよい甘酸っぱさ。頬がなんだか恥ずかしくなる。 「小さいころ、祖父とこの実をよく食べた」シモンはももを眺めて言った。 「夏は白い花を探し、秋は赤い実を。多くとれたときなんかは、ジャムにしたこともあった」  ももは口の中で小さな種を舌でもてあそび、最後まで味わう。 「悪くないだろう?」 「うん。何個でも食べれそう」  シモンは満足げに目を細めて、もう一粒小さないちごを摘むとももの手のひらに載せた。 「こっちへ。この先には泉がある」  そう言って、彼は整備されていないいわばけもの道に立ち入る。  深部へと進むシモンの背は滴を纏い、きらきらしていた。大きくて、がっしりとしていて、頬を当ててみたくなるような背中。  ももはいちごを口に含み、その背に寄り添うようにあとをついていく。  雨は上がっていた。
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