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「おい」
大地を踏みしめる音がして、ももは目を開く。シモンはそれを確認すると、顎をしゃくった。
ひときわ大きなブナのそばに、茂みがある。彼はぬかるみに足を突っ込むのもいとわずにそこへ近寄る、おもむろに手を伸ばした。彼女もそろりと後ろへつく。真っ赤な野いちごがあった。
「バライチゴだな」
「バライチゴ?」
「ああ、花がバラに似ているんだ。夏から秋にかけてその実を成熟させる」
一ユーロ硬貨ほどの丸々とした熟した果実は、見た目はラズベリーに近い。
シモンはいくつか成ったうちのひとつをもぎって、口に含む。
「おいしい?」
ももは訊ねるが、シモンが言葉を返すことはない。
酸っぱいのか甘いのか、表情すら変えずにシモンはふたたびバライチゴに手を伸ばすと、それをもうひとつもぎって、ももの口元へ運んだ。
「食べてみたらいい」
ひやり、押し当てられた果実に、鼓動が跳ねる。真っ赤に熟れたそれを無骨な指がつまんで、あまつさえ、女に食べさせようとするなんて。背徳的なその行為に、ももは熱い吐息を堪えておそるおそる口を開いた。
二本の指の間からそっと唇でそれを抜きとって、舌の上に転がす。だが、同時にカサついた男の指の腹まで感じ、ももはきゅっと瞳を閉じた。
一瞬のことだ。だが、永遠にも思えた。そんな、背すじが震えるような劣情をひた隠して果実をつぶす。
「ん、甘い」
想像していた酸味は訪れなかった。世間一般の苺よりも味自体はさっぱりしていて、舌の上で広がるのはほどよい甘酸っぱさ。頬がなんだか恥ずかしくなる。
「小さいころ、祖父とこの実をよく食べた」シモンはももを眺めて言った。
「夏は白い花を探し、秋は赤い実を。多くとれたときなんかは、ジャムにしたこともあった」
ももは口の中で小さな種を舌でもてあそび、最後まで味わう。
「悪くないだろう?」
「うん。何個でも食べれそう」
シモンは満足げに目を細めて、もう一粒小さないちごを摘むとももの手のひらに載せた。
「こっちへ。この先には泉がある」
そう言って、彼は整備されていないいわばけもの道に立ち入る。
深部へと進むシモンの背は滴を纏い、きらきらしていた。大きくて、がっしりとしていて、頬を当ててみたくなるような背中。
ももはいちごを口に含み、その背に寄り添うようにあとをついていく。
雨は上がっていた。
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