第十三話

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第十三話

 午後、二人は各々の生活に戻った。シモンはアトリエで制作を、ももは雨上がりのジヴェルニーを眺めるために丘を降りた。  雨上がりのパリは格別だと昔スクリーンの中である俳優が(そらんじ)ていたが、この田舎町もなかなか負けていない。水溜りに映る青空へひとつふたつと飛び込みながらクロード・モネ通りを歩くことのなんと清々しいこと。  ただ、ひたすら商店を眺めるのでさえ、なにか特別な宝を探しているような心地であった。  オーガニック食品を扱う店で午後のティータイムにぴったりな茶葉を見つけアトリエに帰ると、シモンは作業台に頬杖をついて、居眠りをしているようだった。  珍しいことがあるものだ。閉じられた瞳を眺めてももは思った。意外にも朝が弱いのか、もものほうが先に起きることはあれど、アトリエで彼が無防備な姿を晒すことはそう多くない。煙草を吸いながら日光浴でもしていたのか、そばには巻き煙草の残骸が転がっている。  また片付けもしないで、と眉を下げながらももはそれを集めてゴミ箱へ捨てる。ポロポロとフィルターからこぼれた葉が机に舞ったが、丁寧に指でつまんで片した。  それが済むと、紅茶でも淹れて自分もひと休みしようかと考えた。だがどうしても、崩れ落ちそうな体勢で器用に目を閉じる画家のそばから離れがたいとも思った。  射し込んだ光に、錫色の髪が瞬く。くしゃっとした、さわり心地のよさそうな髪。  はじめて出会ったときよりも、少し伸びたかもしれない。ところどころに混じった白髪が、彼の隠された優しさを映し出すようにまったりと光を溜め込んでいる。  閉じられた瞳を覗くと、下まぶたのあたりに絵の具がついているのがわかった。彩度の低い、黄みを帯びた灰緑色。  彼の近く、イーゼルに立てられたカンヴァスはその色に染められている。きっと、あの森でも描くのだろう。  まるで、大きな子どもみたいだ。ただひたすらに筆をとり、夢中でカンヴァスの上を走る。いくら絵の具まみれになっても、気づかない。 「シモン」  そっと彼の安らかな寝顔を見守って、その名を呼んでみる。 「シモン」  その一音一音を抱きしめるように、唇に載せる。  なんて美しい音色だろう。なんて、儚い音色だろう。舌に溶け出したこの上ない甘味と、ほんの少しの苦味が全身に沁み渡る。  一体、この人はなにを背負っているのか。秀でた額が落とす影にはどことなく哀愁を感じさせる。大きな背は、古びた床に大きな影を作っている。  それを知りたいと思うのは(おご)りか。それをそっと請け負ってあげたいと思うのは自惚(うぬぼ)れか。  インターネットが普及したこの時勢、二十年前のことなど調べれば容易く手にすることができる。だが、ももはそれをしなかった。なぜ? 彼の心の(うち)に隠されたクローゼットを覗くようで、いたたまれなかったからだ。  実際にももがそうであるように、勝手に探られたくないことだと思った。話してくれるまで待とう。あるいは、ずっとしらなくてもいい、と。  たしかに浮かび上がる欲望こそを自らのクローゼットに押し込んだ。 「シモン」  ももは、その名を囁く。  まぶたについた緑に手を伸ばす。すっとなぞってみても、それは消えない。あとでせっけんでしっかり洗わないと落ちないだろう。  なにもないグラスに水を注ぐように、満たされていく胸に眦を緩める。  やがて、こめかみへ伝い指を頬まで下ろすと、その手を大きな手のひらが掴んだ。声を上げる間もなく引き込まれて、男の胸の中に飛び込む。  香ばしいたばこの匂いがする。それから、油と、土のにおい。とくりとくりと伝わる鼓動に耳を澄まし、ももは自分を包む熱に身を委ねる。  ザラついた感触が頬をもてあそび、音もなく、二人の唇は重なった。
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