第十三話

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 互いの熱をわけあい、じっくりと唇の感触を味わってから、その奥を暴いていく。  薄い上唇とぽってりとした下唇のアンバランスさ、かすかにかさついてはいるものの、しっとりとしたやわらかな感触、ももの下唇をまるで赤子のようにそうっと食むところ。まさに、シモン・ロンベールという男を象徴しているようだった。  淫猥(いんわい)な音も立てず、理性的で、紳士的で、百獣の王のような大きな(からだ)をしているというのに、あまりにもその口づけは繊細だ。だが、同時に、こんなにも情熱的な口づけを彼女は味わったことがなかった。  初めて彼がももを食らったときも、たしかにその行為の激しさで言えば今の数倍も凄まじい勢いを持っていたが、これほどまでに内なる熱を分け与えられたわけではなかった。  膝の上に彼女を乗せ、何度も何度も角度を変えて、シモンはももの唇をさらう。その優しさに、温もりに、ももは彼のフリースシャツを掴む。  二人に言葉はない。だが、言葉以上のなにかがそこにはあって、彼らはそれらを手繰り寄せ合っていた。  大きな手がももの腰をなぞり、彼女の華奢な背を(かたど)っていく。  反った背骨に、下着の食い込んだあばら、それから、今にもはばたいてしまいそうな、羽の付け根。彼の手にかかると、まるで自分が貴重な美術品であるように思えてしまう。それこそサモトラのニケのごとく、唯一無二の芸術(アート)。  熱く、逞しい手のひら。それは、紛うことなき創造主の手。そして、救世主のそれでもある。  だが、この瞬間、それは母の背に手を伸ばす迷い子のようにも思えた。  唇が離れ、シモンの唇が彼女の首を辿っていく。その繊麗な快感に体をのけぞらせながら、ももはシモンの背に手を伸ばす。丸まった男の背。その広大な背中は、いくらそのすべてを抱きしめようとしても、手が届かない。なんともどかしいことか。  顎をくすぐる猫のようなやわらかな毛。鼻腔を掠める彼の頭皮の匂い。鎖骨を吸い上げるたおやかな唇に、彼女を(かたど)る優しくも精悍な手。 「シモン」  ももは祈るように彼を呼んだ。  唇が離れ、(はしばみ)色のビー玉のような瞳がももを捉える。  洋梨のコンポート色のまったりとした日差しの中、それはたしかにかすかな憂いを帯びていた。彼の内に積み重なった影のせいか、それとも、生まれながらのものか。ももははっきりとはわからない。  ただ、その(かげ)った瞳が、花開くかのごとく弛むさまをいつか見てみたい、そう思った。  情感をこめた笑みを頬に載せ、ももはその憂色の瞳にキスを落とす。  背中を抱く力が強くなり、彼は彼女をその腕に閉じ込めたまま立ち上がった。再び唇を繋ぎ、互いの中に息づく孤独や倦怠(けんたい)、あるいは絶望を分け合い、彼らは影の中(寝室)へと溶けていく。  彼はわたしを愛さない。  わたしは彼を愛さない。  とっくのとうに、心に彼だけの特別な空間ができあがっているのを知りながら、ももはシモンと体を重ねる間、自身にそう言い聞かせた。  溶けてしまうほどの快感とともに、裂けるほどの痛みを感じながら、必死でその痛みを甘受し、自分のなかに刻み込む。……
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