第十四話

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 ぐっと握り締められた手をシモンが包む。なぜそんなことをするのか、ももにはわかりかねた。だが、彼が共鳴してくれているのだろうと感じた。 「それで、フランスへ?」 「そう」  ももは力なく頷いた。 「ここは、なにもかもが揃った、夢の街だったから」  過ごしてきた時間、関わってきた人々、数々の経験や思い出によって一個人が形成されていくならば。それまで送ってきた人生を含めて人が人たるならば、という人間は一体どんな人間なのだろうか。  ももは自問するたび、苦しくなった。嫌いなものを好きと言い、好きなものを好きとは言えず、助けてほしいのに大丈夫、と笑い続けてきた自分に、なにが残っているのか。生きている価値があるのか、あるいは、生きてきた価値があるのか、と。  なにもかもを捨ててしまいたくなった。そして、なにもかもを手放そうとフランスへ来た。 「夢、か」 「そう。はじめての海外旅行が、フランスだったの。航空券とB&Bのアパルトマンのシェアルームだけとって、二週間。本当に楽しかった」  凱旋門にシャンゼリゼ通り、エッフェル塔、チュイルリー公園。オペラ座やプランタンにギャラリー・ラファイエット、カルティエ・ラタンやリュクサンブール公園、それから、ルーヴル。なにもかもが輝いていた。そして、すべてが彼女の手の中に残っていた。  あのころの記憶が鮮やかに蘇り、次第に声が華やぐ。  シモンはももの手の甲をさすり、それから頬杖にしていた手を突き直した。 「ヴェルサイユ宮殿やモン・サン=ミッシェルにも行ったわ。ヴェルサイユはチケットの行列がすごくてね」 「ああ、そうだな」 「でも、宮殿を出て少し歩いたところのクレープリーのガレットは最高だったわ。あと、ヴェルサイユ限定の香水があってね、それが大好きだったの」 「バラの香りでもしたか?」 「どうだろう。でも、すごくフランスっぽい上品な香りだった」 「モン・サン=ミッシェルは? オムレツでも食べたか?」  シモンはいじわるく右頬をつりあげる。 「混んでいて諦めたわ。そのかわり、シードルを買って、帰りのバスが来るまで何時間も友達と語り合ったの」  そうだ。ももは忘れていた記憶を古びた箱の中から取り出した。ノルマンディー特産のりんごを発酵させた酒を手に、気高い修道院を見上げながら沙希と過ごしたことを。  目映いほどの光に包まれていた。互いの恋愛事情から、勉学、それから将来のこと。あのころなりに考えていたことを滔々(とうとう)と話し合った。 「それはいいな」  目を細めたシモンに、ももは笑う。 「でしょう? とても、とても楽しかった」  あの満潮の海に浮かぶ修道院も今はもう橋がかけられているという。あのころのまま、残っているものなどはたしてあるのだろうか。  雲が空を流れていくように、誰に対しても時は平等に過ぎていく。それは、建物や大地にとっても同じことだ。 「また、行きたい」 「行けばいい」 「そうね。一度くらい、おいしくないって評判のオムレツを味わってみなくちゃ」  言いながら、ももはその歴史ある修道院にシモンとともに立っているのを思い浮かべていた。くたびれるほどの坂道を上がり、その巡礼の風を浴びてから、また下っていく。甘いのか苦いのかよくわからない酒と、数枚の絵はがきを買い、塀を出た先の岩の上に腰掛ける。会話もなくしばらく干潮の海を眺めて、ただそっと寄り添う。  世界は彼女だけのためではなく、他ならぬ彼のためにも存在していた。  言いながらあくびを噛み殺したももに、シモンは、「やめておけ」と苦い顔をしてシーツをかけた。 「夕飯どきになったら声をかける」 「うん」  ああ、今なら自分という人間が、どんな人間か少しわかるような気がする。そんなことを思いながら、ももは頷く。  おねがい、という声は、柔らかな布に吸い込まれていった。
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